心に残る名曲  その百三十四  パッヘルベル 「カノン」

ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel)はドイツのオルガン奏者で作曲家です。1773年〜77年までウィーンの聖ステファン大聖堂(St. Stephen’s Cathedral)の次席オルガン奏者となります。その頃、大バッハの父などと知己を得ます。

 

 

 

 

 

 

 

作品は多岐にわたっています。コラール変奏曲集(Chorale Variations)、コラール前奏曲(Chorale prelude)をはじめ、70曲に近いコラール曲を作ります。三声の「カノンとジグ」(Kanon und Gigue)ニ長調などの室内楽、トッカータ(Toccata)ホ短調、その他モテット、ミサ、マニフィカートなどの宗教声楽曲もよく知られています。中でも最も親しまれているのがカノン ニ長調(Canon in D Major)でしょう。

パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)のような大胆な和声法も用いず、「旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法」を好んで用いているといわれます。カノン ニ長調を聴くとなるほどと頷くことができます。

心に残る名曲  その百三十三 リヒテル 「ピアノ協奏曲第一番」

再度、ピアノ協奏曲第一番を取り上げます。演奏者はスヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav  Richter)です。ドイツ人を父にウクライナ(Ukrayina)で生まれ、主にロシアで活躍したピアニストです。在留ドイツ人として扱われたといわれます。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された人です。

Soviet pianist Sviatoslav Richter (Photo by Manuel Litran/Corbis via Getty Images)

 ドイツ人の父の家は代々ドイツルーテル教会に属する商家でした。幼いころに一家はオデッサ(Odessa)に移住します。父親は同地におけてルーテル派の教会である聖パウロ教会で合唱団長や、オルガン奏者を務めていました。また、音楽学校で教師をも務めたようです。
20世紀の最も偉大な巨匠の1人で、おそらくリヒテルの名前を知らないクラシック音楽愛好家はまずいないでしょう。しかし、その圧倒的な知名度にもかかわらず、彼は神秘のヴェールに包まれた謎の多いピアニストだったようです。当時の社会主義国家ソ連のイデオロギーの只中にいた彼は、出国を許されず、鉄のカーテンの西側の地方では、すごいピアニストがいるらしいともっぱら噂だったといいます。
その彼が西側に登場してセンセーショナルな話題を 呼び、衝撃を与えたのが1960年のことです。当時の録音によると、ラフマニノフの代表的な交響曲第一番は、彼が知性と感性と強靭な技巧を併せ持った、稀に見るピアニストであることを示していたという評価がされます。
リヒテルは日本にも何度も訪れて演奏しています。その静と動、強と弱、剛と柔の対比を極端につけた演奏は多くの人の魂を揺さぶり、 強い説得力を持って聴く人に迫ってきたと評価されています。
彼は非常に大きな手の持ち主で、一説によると、鍵盤の12度を上から悠々つかめるほどの、いわば「化け物の手」 を持っていたといわれています。超人伝説を語るエピソードになっています。
チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第一番 変ロ短調」

心に残る名曲  その百三十二 チャイコフスキー  「ピアノ協奏曲第一番」

このピアノ協奏曲(Piano Concerto No. 1)は、雄大な序奏と変則的なソナタ形式の主部からなります。非常によく知られた序奏は、シンフォニックで壮麗で、第二楽章は華麗で優美な構成、第四楽章はロシアの民族音楽を随所に入れています。

 チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)は当初友人だったルビンシテイン(Nikolai Rubinshtein)を初演者と考え、彼に献呈しようとして1874年のクリスマスにこの作品の草稿をルビンシテインともう2人の楽友に聞かせたとあります。その後、器楽部が完成した後で、ドイツ人ピアニストで指揮者のハンス・フォン・ビューロー(Hans von Bülow)へ献呈します。ビューローは高く評価し「独創的で高貴」と賛辞をおくったといわれます。1875年10月にビューローのピアノでボストンにて世界初演され大成功を収めます。

ボストンでの初演の1週間後、ロシア初演はサンクトペテルブルク(St. Petersburg)において、ロシア人ピアニストのグスタフ・コス(Gustav Koss)とチェコ人指揮者のナプラヴニーク(Eduard Napravnik)によって行われます。モスクワ初演はルビンシテインの指揮、タネーエフ(Sergei Taneyev)のピアノによって行われます。いずれも大成功の演奏で終わったといわれます。ルビンシテイン自身、その後何度も独奏ピアノを受け持ち、このピアノ協奏曲第一番を世に知らしめる役割を果たした功績者です。

心に残る名曲  その百三十一 バーンスタイン 「シンフォニック・ダンス」

レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)は、1918年生まれのアメリカ人の作曲家で指揮者です。ピアニストとしても知られ、カラヤン(Herbert von Karajan)やショルティ(Georg Solti)、ワルター(Bruno Walter)などとともに、20世紀後半の古典音楽界をリードしてきた指揮者であり作曲家です。存命していれば今年は100歳です。

 バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州(Massachusetts)に生まれます。父親は敬虔なユダヤ教徒。父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志します。ボストン・ラテン・スクール(Boston Latin School)というアメリカでは最初の公立高校で現存する最古の学校を経て、ハーヴァード大学(Harvard University)やカーティス音楽院(Curtis Institute of Music)で学びます。

彼が指揮者を志したのはミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos)というギリシャ人の指揮者の影響です。指揮ではライナー(Fritz Reiner)やクーセヴィツキー(Serge Koussevitzky)に師事し、作曲はピストン(Walter Piston)に師事します。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったようです。1943年夏にニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)の副指揮者に就任します。1943年11月、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役として突然ニューヨーク・フィルを指揮します。なにせ本番の数時間前に決まったようです。リハーサルはなし、しかもコンサートはラジオで全国放送されたのです。

1958年、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任します。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、以降11年間に渡るニューヨーク・フィルとの蜜月は数々の名演を残し、やがてニューヨーク・フィルは全盛期を迎えます。「ウエスト・サイド・ストーリ」の「シンフォニック・ダンス」(Symphonic Dances from West Side Story)を作曲するという音楽家でもあります。

心に残る名曲  その百三十 パガニーニ 「ヴァイオリン協奏曲1番ニ長調」

ニコロ・パガニーニ(Nicolo Paganini)は1782年10月生まれです。イタリアのヴァイオリニスト、ギタリストであり、作曲家です。特にヴァイオリンの超絶技巧奏者として世界的に知られています。
 ナポレオン1世の妹エリザ(Eliza)に招かれて宮廷オペラの指揮者となり、その後自作の演奏会をイタリアの各都市で開いたようです。 1828年はウィーン、1831年のパリとロンドンでの演奏会は空前の成功を収めます。奔放な性格で知られ,名人芸的演奏効果と強烈な表現でも有名です。
パガニーニは得意のヴァイオリン曲を多数残します。複数の弦を同時に押さえる奏法と呼ばれるダブルストップ(double stop)、左手で弦を指ではじくピチカート(pizzicato)、フラジョレット奏法(flagioletto)など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られています。フラジョレット奏法とは、「ハーモニクス」ともいわれ、「特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせる特殊な奏法」といわれています。弦を抑えるのではなく、軽く触れて音を出します。

 

ヴァイオリン協奏曲1番ニ長調

心に残る名曲  その百二十九 プロコフィエフ 「ピーターと狼」

プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev)は、帝政期ロシアのウクライナ(Ukrain)に生まれた作曲家です。サンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory)で作曲・ピアノを学びます。ロシア革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5度もわたり、そこを拠点として作曲家やピアニストとして活躍します。さらにパリに居を移して作曲活動に専念します。20年近い海外生活の後、1936年に家族とともにソビエト連邦へ定住します。
 ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)やハチャトゥリアン(Aram Khachaturian)、カバレフスキー(Dmitri Kabalevsky)らと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家といわれるようになります。しかし、スターリン(Joseph Stalin)の後継者とみられていたジダーノフ(Andrei Zhdanov)からの批判を受けるなど、厳しい作曲家生活時代もあります。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されています。「ピーターと狼」(Peter and the Wolf) や「ロミオとジュリエット」(Romeo & Juliet)など、演奏頻度が高い傑作もあります。自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品も作曲しています。

 

心に残る名曲  その百二十八 ファリャ 「三角帽子」

スペインやフランスの作曲家を取り上げています。マヌエル・デ・ (Manuel de Falla y Matheu)は1876年生まれで、20世紀のスペインが生んだ音楽家、作曲家です。カタルーニャ(Catalunya)出身の作曲家・音楽学者・音楽理論家であったサバテー(Felipe Pedrell Sabaté)に師事します。サバテーは音楽教師として名高く、ファリャやアルベニス(Isaac Albéniz)などのスペイン人作曲家を育て上げたことから、「スペイン国民楽派の父」とも呼ばれています。

ファリャにスペイン民族音楽への興味を植え付けたファリャはサバテーですが、アンダルシア(Andalucía)のフラメンコ(flamenco)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示しているといわれます。管弦楽曲で有名な作品に「三角帽子」があります。その第2幕 「粉屋の踊り」の終幕は素晴らしいものです。その他バレエ音楽「恋は魔術師」もあります。晩年にスペイン内戦(Spanish Civil War)でフランコが政権に就くとアルゼンチンに亡命して作曲活動をします。

心に残る名曲  その百二十八 ファリャ 「三角帽子」

スペインやフランスの作曲家を取り上げています。マヌエル・デ・ファリャ(Manuel de Falla y Matheu)は1876年生まれで、20世紀のスペインが生んだ音楽家、作曲家です。カタルーニャ(Catalunya)出身の作曲家・音楽学者・音楽理論家であったサバテー(Felipe Pedrell Sabaté)に師事します。サバテーは音楽教師として名高く、ファリャやアルベニス(Isaac Albéniz)などのスペイン人作曲家を育て上げたことから、「スペイン国民楽派の父」とも呼ばれています。

ファリャにスペイン民族音楽への興味を植え付けたファリャはサバテーですが、アンダルシア(Andalucía)のフラメンコ(flamenco)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示しているといわれます。管弦楽曲で有名な作品に「三角帽子」があります。そのの第2幕 粉屋の踊り~終幕の踊りは素晴らしいものです。その他バレエ音楽「恋は魔術師」もあります。晩年にスペイン内戦(Spanish Civil War)でフランコが政権に就くとアルゼンチンに亡命して作曲活動をします。

 

心に残る名曲  その百二十七 シャブリエ  「スペイン狂詩曲」

1882年生まれのシャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier)は、幼い頃からピアノや作曲に興味を示し、特にピアノの腕前は天才といわれるほどであったといわれます。しかし、父親が弁護士だったので、パリの後期中等教育機関リセ(lycée)で法律を学び、内務省に就職し公務員生活を送ります。傍らポーランド生まれの作曲家でヴァイオリニストであったタノスキ(Alexander Tarnowski)に音楽理論や作曲法を学びます。

Emmanuel Chabrier
Alexis
18 January 1841 ? 13 September 1894
French Romantic composer
Credit: Peter Joslin / ArenaPAL


シャブリエの前半生は公務員であり、作曲家としての活動期間は14年と短く、発表された作品数は限られています。1882年にスペインを訪れ、そこで、「スペイン狂詩曲」(Espana Rhapsody for Orchestra)を作ります。この曲はシャブリエの代表曲です。管弦楽作品やオペレッタなどの作品があり、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせてくれます。シャブリエの楽風は、後の作曲家に大きな影響を与えたといわれます。

シャブリエは、フランスの印象派画家モネ(Claude Monet)やマネ(Edouard Manet)と親交があったようで、彼らの絵を所有していたといわれます。楽風も絵画のような華やかさを感じます。

 

心に残る名曲  その百二十六 ラロ 「スペイン交響曲」

ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo)は1823年生まれ。フランス人作曲家なのですが、もともとはスペインのバスク(Euskara)の家系であったようです。ラロの作品を聴くと随所にスペイン的な主題が使われていることが分かります。ラロはヴァイオリンおよびヴィオラ奏者でもありました。

 ラロが1874年に作ったヴァイオリン協奏曲第2番にあたる「スペイン交響曲」(Symphonie espagnole)ニ短調は特に有名です。今日では全曲が上演されることなくなりましたが、その序曲はフランス歌劇の序曲集といった盤などにも収められているといわれます。「スペイン交響曲」は彼の代表作と見なされています。

この曲は交響曲といわれていますが、ヴァイオリン独奏と管弦楽のために作曲されたので、交響的協奏曲とも呼ばれます。フランスにおけるスペイン趣味の流行の前触れを告げた作品といわれるほど、スペイン舞踏の旋律とリズムが横溢しています。

 

心に残る名曲  その百二十五 ロドリーゴ 「アランフエス協奏曲」

ホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo)は幼少の時ジフテリアにかかり視力を失います。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始めます。パリのエコール・ノルマル音楽院(École Normale de Musique de Paris)で、作曲家のデュカス(Paul Abraham Dukas)に師事し、音楽学をモーリス・エマニュエル(Maurice Emmanuel)に師事して、才能を開花していきます。

ロドリーゴ代表作の「アランフェス協奏曲」(Concierto de Aranjuez) は、1939年にパリにおいてクラシック・ギターの独奏と管弦楽のために作曲されます。1940年11月にバルセロナ・フィルハーモニー管弦楽団(Barcelona Philharmonic Orchestra)によりバルセロナにて初演されたといわれます。

この曲の中間楽章「アダージョ」(Adajo)は、その哀愁をたたえ、親しみやすい20世紀のクラシック音楽としては最も有名な楽曲となっています。第二楽章Adagioはギターはもちろんですが、オーボエの独奏も響きます。https://www.youtube.com/watch?v=oVSsnlENCGg