心に残る一冊 その143 「若き日の摂津守」 その二 町奉行日記

「望月どのはまだ出仕されない、その後なんの沙汰もなく、奉行職交代のようすもない」ー当番書役私記

家老や重臣を前に奉行職を任じられた望月小平太が云います。
「私は壕外をなくそうとするのではございません、長年の間、溜まっていた塵芥をかたづけ、毒草の根を断ち切るだけです、それだけがわたしの役目です」
小平太は脇においてある調書をとり、本田斉宮という重職に渡して「他の重職の方々でも回覧してもらいたい」と云います。

壕外をとりしきる三人の親方の一人、大橋の太十を小平太は訪ねます。着流しで刀をずっこけそうに差し、右手を懐にいれています。
「太十は私だが、、なにか私に御用ですか」
「おれは町奉行の望月小平太だ、」

二人は豪勢な造りの書院造りをとおり庭にでます。そこに茶と菓子が運ばれてきます。
「冗談じゃあね、おめえ大橋の大十だろう、」
「望月がどんな人間か、評判ぐれえは聞いている筈だ、おれは茶なんかほしくって寄ったんじゃね、ふざけるな」
太十は酒肴の用意を命じます。若い女が酌に座ります。どうやら太十の妾らしいようです。
「いい女だな」小平太は云います。
「お見通しでございますかな」
「いい心持ちだ、太十」
「痛み入ります」
小平太は云います。「まだそんな堅苦し口をきいているのか、こっちは兄弟分になろうと云っているんだぜ、さあ、大きいので一杯いこう」
「太十、、これはおめえとおれの、兄弟分のかための盃だ、いいだろうな」

五人の芸妓は小平太の陽気で巧みな遊び振りに、さそいこまれて、みんなすっかりはしゃぎだして無遠慮に嬌声をあげています。酔ったあげく休むと云って若い芸妓としけもむ小平太です。壕外の三人の親方、大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十が集まり、小平太の桁外れの振る舞いを話題にします。
「あれは誰にもできるという芸じゃない、おらあすっかり惚れ込んじまったよ」灘八が云います。
「灘波屋八郎兵衛、気に入ったぞ、とても他人とはおもえねえって」

そこに小平太があらわれます。袴をさばいて上座に座り刀を置いて三人をみまます。濃い眉と一文字なりの唇とが、厳しい威厳を示しています。
「町奉行、望月小平太である」切り口上で云います。
「灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十、こんにちはいずれも大儀であった」
三人は平伏します。
「これで挨拶は済んだ、三人とも楽にしてくれ」
小平太は手早く袴と紋付きを脱ぎ、白い下着の帯をぐるぐると巻き付け、三人の前へきてあぐらをかきます。三人はあっけにとられます。
「さあ、灘波屋のとっつあんから順に盃をもらおう」

「それはまた、どういわけです?」
「侍と町人、町奉行と壕外の親分、、こういう裃をぬいで、男と男になりたかった」小平太は云います。
「人間と人間、男と男になって頼みたいことがあったからだ」
「頼みとは?」八郎兵衛が云います。

小平太は懐から奉書紙で包んだ書状を出し、それを一通ずつ三人の前に出します。
「、、右により四月限り、壕外を立ち退くこと実正なり、万一仰せにそむき候ばあいは、いかようなる罪科に問われるとも、、、、」

同じ四月十二日の町奉行日記にはこうあります。
「壕外に住む親方三名、灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十は、家財を処理していづれかへ立ち退いた、いかなる理由によるかわからないが、長年にわたって御政道のさまたげとなっていたことが、これでようやく落着した、藩家のために慶賀すべきことと思う」