心に残る一冊 その114 「樅ノ木は残った」 その一 原田甲斐

山本周五郎の傑作といわれる「樅ノ木は残った」のつかみ所などを、僭越とは承知で私なりに数回にわたって解説させていただきます。六十万石という大大名で外様藩である仙台藩、別名伊達藩が江戸幕府のお取り潰しの策謀とで、生き残りをかける歴史小説といってもよい内容です。

原田甲斐は、仙台藩家臣で宮城県柴田郡柴田町の館主四千二百石でした。国老に就任できる筋目の家柄で四十二歳にてようやく評定役の一員にすぎませんでした。甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれていますが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた船岡の居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとし、穏やかな日々を過ごしていました。舘において保護をしている宇乃は、甲斐の母親であった慶月院の側に仕えます。慶月院はかつては甲斐を厳しく育て女丈夫といわれました。

万治三年というと1660年です。仙台藩第三代藩主である伊達綱宗は、幕府より与えられていた浜屋敷にいました。現在の港区東新橋のあたりです。綱宗は幕府からかねがね不作法の儀不届との理由で、突然閉塞蟄居を命じられます。江戸の吉原での放蕩三昧が理由とされますが、非難されるほどの遊興の覚えではなく、藩内の権力争いによるでっち上げでありました。

国家老首席の茂庭周防は幕府に対して、綱宗の長子亀千代を世継にと願いでます。そしてようやく、僅か二歳の亀千代が藩主となります。幼君の後見役として一門の大名で、伊達政宗の末子であった伊達兵部宗勝が任命されます。その夜、坂本八郎左右衛門、渡辺九郎左右衛門、畑与右衛門、宮本又吉のもとへ訪問客があり、上意討ちとの名で誅殺されます。吉原に同行したという畑与右衛門らの口封じのためです。ところが、伊達当主は不在であって、上意討ちを命じるものはいなかったのです。これを幕裏で指示したのは、兵部宗勝でありました。畑与右衛門の妻も暗殺されますが、かろうじて逃げ延びたのは娘の宇乃でした。

甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語ります。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅ノ木に己の生き様を重ね合わせているように思えます。

上意討ちという暗殺事件で開かれた評定役会議で、予告なしに出席した兵部は、暗殺者たちを不問にすべきと強引に弁護します。世間では、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂が流れます。

事態は紛糾していきます。国家老の一人、奥山大学が首席の茂庭に代わろうとする策動、新たに兵部に加えられた領分に陸前の金山があり、産金は兵部に属するか、伊達本藩に所属するかの紛争もでてきます。さらに兵部に亀千代毒殺の謀略があるとも噂されます。