ナンバープレートから見えるアメリカの州テキサス州・The Lone Star State

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テキサス州(Texas)のナンバープレートには「The Lone Star State」とあります。メキシコからの独立という願いとして、テキサスの州旗に白い星を一つあしらったといわれています。これがLone Starの由来です。テキサスは面積、人口ともに全米で2番目に大きい州です。 北部のレッド川(Red River)はオクラホマ州との州境の3分の2を占め、東部はアーカンソー州と一部接しています。サビーン川(Sabine River)がルイジアナ州との州境の大部分を形成しています。

License Plate of Texas

テキサス(Texas)という名前は、カド(Caddo)族の言葉で「友人」または「同盟者」を意味します。「友人」や「同盟者」は「テイシャ(Teja=táysha)と呼ばれたようです。1500年代にスペインの探検家たちが到着した時、カド族はこの地域に住んでいた先住民の一つでした。探検家たちはtejasまたはtexasと綴り、この地域にこの名前をつけたといわれます。

1528年にスペイン人が到着した時、アパッチ族を含むネイティブ・アメリカンはこの地域に住んでいました。最初の入植は1685年にフランス人によって試みられ、フランス人はこの地域をルイジアナの一部と主張します。1803年、アメリカはルイジアナ購入でフランスの領有権を獲得しますが、1819年の条約でスペインに譲渡します。そして1821年のメキシコ独立によりメキシコの一部となります。

Map of Texas

1836年、テキサス人はメキシコからの独立を宣言すると、メキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テキサス反乱軍)の間で戦争が始まります。その最も激しかったのがアラモの戦い(Battle of the Alamo)といわれます。1836年2月23日から3月6日の13日間にテキサス側の拠点とされ戦闘の舞台は、アラモ伝道所(Fort Alamo)です。

大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Santa Anna)の部下であったマルティン・デ・コス(Martín Perfecto de Cos)はサンアントニオ包囲を命じられます。テキサス反乱軍はアラモの任務を防衛の根拠地を強化していきます。テキサス正規軍の部隊はウィリアム・トラヴィス大佐(William Travis)が指揮し、ジェームズ・ボウイ大佐(James Bowie)が守備側の最大の分遣隊である民兵を指揮します。約150人の兵士と約20門の大砲からなる部隊がメキシコ軍の進軍を待っていました。

Fort Alamo

戦争初期の交戦に参加したテキサス人の多くは故郷に戻っていたため、守備の拠点であるゴリアド(Goliad)とサンアントニオの守備隊の大部分は、冒険を求めて北部から到着した志願兵で構成されていました。彼らは開拓者として土地を獲得するという期待から、アラモに惹かれた人々でした。その中には、伝説的な人物で、かつてはテネシー州議会議員でもあったデイビー・クロケット(Davy Crockett)もいました。

アラモ守備陣の援軍への要請は、トラビスが送ったテキサス人とアメリカ人に支援を求める手紙に強く反映されていました。しかし、戦闘前に追加部隊が到着したのはわずか約30名であったようです。アラモの守備兵の実際の数の推定はさまざまで、通常は183人から189人位だったといわれます。

サンタアナ軍は2月23日にアラモに到着し、メキシコ軍の包囲と攻撃が始まります。砲撃は3月6日のメキシコ軍の攻撃まで続き、アラモの守備兵は全員死亡します。非戦闘員の女性、子どもや奴隷数名は生き残り、撤退を許可されました。サンアントニオ(San Antonio)中心街の一角にアラモ伝道所の遺跡があります。1960年にジョン・ウエイン(John Wayne)が製作・監督した「The Alamo」という映画が作られました。

Davy Crockett

テキサス州は国内のどの州よりも農場が多いことで知られます。東テキサスの肥沃な土地は、南北戦争前に綿花農家を惹きつけ、南北戦争後の数年間、綿花は州の主要作物となります。機械化農業が発展するにつれ、綿花生産はテキサス州西部のハイプレインズ(High Plains) へと移り、灌漑と肥料が豊作をもたらし、綿花生産におけるテキサス州の全国的な地位を不動のものとします。ときには、干ばつによる不作が続き、作物の多様化が進んでいきます。灌漑の導入により、リオ・グランデ・バレー下流(Rio Grande Valley)では大規模な野菜と果物の生産が行われるようになります。20世紀半ば以降、テキサスはソルガム(sorghum)、ピーナッツ、トウモロコシの主要生産地ともなります。

Fall of the Alamo

牛、羊、ヤギの飼育では他州をリードしています。国内で生産されるモヘア(mohair)のほぼすべては、テキサスのアンゴラ山羊からとれます。19世紀の広大な内陸部の牧畜帝国は、沿岸部に移行する傾向となり20世紀には綿花の生産が盛んになります。商業漁業はテキサス州の経済に大きく貢献しており、メキシコ湾岸の60以上の港から小さな船団が出漁しています。ブラウンズビル(Brownsville)は国内最大級のエビトロール船団の中心地となっています。エビ漁は経済的にテキサス漁業の最大かつ最も重要な産業です。

テキサス州は、石油と天然ガスの生産量と石油精製能力では依然として他州をリードしています。メキシコ湾や内陸部に油田が多く、エクソンモービル(Exxon mobil)などの石油会社の本社があります。電子機器、航空宇宙部品、その他のハイテク製品の製造はますます重要性を増しています。アメリカン航空(American Airline)、コンチネンタル航空(Continental Airline)、AT&Aなど多くの企業の本拠地となっています。カリフォルニア、ニューヨークと並ぶ商業や経済の中心です。

Giant

現在の州都はオースチン(Austin)ですが、近年特に人気が高い町がリバー・ウォーク(River Walk)のあるサンアントニオ(San Antonio)です。リバー・ウォークは小さな河の両岸にレストランが並んでいます。散歩、船下りにも楽しいところです。今や年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても知られています。研究者を集める多くの学会もここで開かれています。

River Walk

オースチンの学校を見学したことがあります。引率の教師はピックアップトラックで案内してくれました。サンアントニオは学会発表で行ったのですが、発表を終えてからアラモ砦を見学し、夕食場所のリバー・ウォークへ向かいました。
(投稿日時 2024年2月26日)

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その44 The Lone Star State

8月の終わりにハリケーン、ハーヴィ(Harvey)が南部テキサス州(State of Texas)に上陸し、最大都市であるヒューストン(Huston)は未曾有の水害に見舞われました。日本の国土の1.8倍、アラスカ州(Alaska)に次ぐ広さがあるのがテキサス州です。リオ・グランデ川 (Rio Grande) は州の北西から南東に流れメキシコ湾(Gulf of Mexico)に注ぎます。豊かな穀倉地帯を形成しています。Rioとはスペイン語で川を意味です。「Texas」はカド族(Caddo)の言葉である「 tejas」に由来し、「友」とか「仲間」を表します。

17世紀末、スペイン人がカド族、アパッチ族(Apache)、チョクト族(Choctaw)、トンカワ族(Tonkawa) などのテキサスの土地に進出し、18世紀にはサンアントニオ(San Antonio)などにスペインの布教砦や城塞がつくられます。その後合衆国によるルイジアナ購入による領土の拡大により、メキシコとの戦争が起こります。アラモ砦(The Alamo)などの戦闘の後に、1836年にテキサスは連邦に編入されます。こうした独立への強い気性を指して「テキサス魂(Texas In My Soul)」というフレーズもできます。

テキサス州のニックネームは「The Lone Star State」という少々変わった名称です。「テキサス魂」とか「アラモ砦の州」という名ではありません。テキサス共和国時代から使用されている白い星を一つあしらった州旗に由来しているとあります。州都はオースティン(Austin)、ヒューストン、サンアントニオ(San Antonio)が続きます。

経済は綿花、牧畜、石油が中心です。西部は鉄道の発達で牧畜業が急速に盛んになります。1901年、ビーモント( Beaumont)付近のスピンドルドック(Spindletop)という油田が発見され、全米一の産油地となっています。油田はメキシコ湾外沿いに多く、石油精製、石油化学を中心に多種の工業も盛んです。1956年に制作された映画「ジャイアンツ」(Giants)は牧畜と石油産出を巡るテキサスの発達や人種問題を扱った名画です。主演者にはロック・ハドソン(Rock Hudson) 、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor) 、ジェームズ・ディーン(James Dean)がいました。日本でも知られた懐かしい俳優です