キリスト教音楽の旅 その1 典礼音楽と大衆的宗教音楽

私はキリスト教と音楽について専門家ではありませんが、少しはかじっているので、個人的な経験や知識をもとに筆を進めることにします。できるだけ時代考証をしながら正確を期してまいります。

Musical logo, which symbolizes Evangelical music. For music studios that reach out to Christian music.

キリスト教音楽は大きく二つに分類することができそうです。一つは典礼とか礼拝のための音楽、もう一つは大衆的宗教音楽、たとえばラフダ(lauda)と呼ばれる神をたたえる歌やオラトリオ(oratorio)などの大規模な楽曲です。大衆的宗教音楽というのは、筆者の造語です。

典礼は礼拝とか祭礼とも呼ばれ、体系化されたものです。キリスト教会においては、教派や教団によって制定されています。典礼の形式はそれぞれに異なり、奏でられる音楽もさまざまです。こうした典礼音楽は公の礼拝や祈祷でのみ用いられる狭義の音楽です。他方、大衆的宗教音楽というのは、一般に演奏会向けのキリスト教音楽というか、芸術音楽のことです。大衆的宗教音楽の主題は、聖書の記述を拠りどころにしているのが普通です。クリスマス・オラトリオ(Chrismas Oratorio)とかレクイエム(Requiem)などが有名です。

心に残る名曲 その二百八 日本の名曲 多田武彦 「富士山」

日本の音楽界ではあまり知られてはいませんが、合唱界では多田武彦に「この曲あり」としてしばしば歌われる曲があります。それが「富士山」であり「柳河風俗詩」です。作曲家としては少々異色です。京都大学法学部を卒業し、京都大学男声合唱団の指揮者として活躍します。作曲家清水脩に作曲上の指導を受けます。

多田武彦

草野心平の詩による「富士山」は1956年の作、北原白秋の詩による「柳河風俗詩」は1954年の作で男声合唱の定番となっています。いずれも初演は京都大学男声合唱団によって紹介されます。多田は「詩に寄り添うように」を作曲のモットーにして、合唱曲を500曲あまりを作っています。その作風は抒情性が高く、決して派手ではありませんが、和声を駆使しての日本の近代詩に寄り添うような旋律がつきます。曲の大多数は草野心平や北原白秋の他に、三好達治、伊藤整、中原中也、堀口大學などの近代詩を取り上げています。

多田武彦は、「アンサンブル上達のための練習方法」という冊子を出しています。「アンサンブル」(ensemble)とは、フランス語です。「一緒に」とか「全体」などを意味する単語です。音楽の世界では合奏、重奏、合唱、重唱などを指します。多田は云います。「他のメンバーの良い響きに聴きながらパート練習をやっていくと、やがてパート内に豊かな響きが充満する」と。そのことによって他のパートとの整合性も高まってくるというのです。

心に残る名曲 その二百四五 日本の名曲 小山作之助 「夏は来ぬ」

1864年といいますと文久3年です。越後国頸城郡潟町村、現在の上越市大潟区潟町に小山作之助は生まれます。 16歳で小学校を卒業した後、夜は漢学塾に通い、1884年に文部省の音楽取調掛に入学します。音楽取調掛はのちに東京音楽学校に改組されます。小山は首席で卒業後、東京師範学校や東京盲唖学校の教師ととなります。

小山作之助

やがて1892年に東京音楽学校の助教授、1897年には教授となります。教え子にはのちに作曲家となる瀧廉太郎がいます。47歳の時には文部省唱歌の編纂委員として作曲活動に入ります。小山の作曲は唱歌、童謡、軍歌、校歌など非常に多岐に亘ります。「夏は来ぬ」は小山の最も知られる曲と言えるでしょう。2007年に日本の歌百選に選ばれます。作詞は歌人で国文学者の佐佐木信綱です。

 卯の花の 匂う垣根に
  時鳥 早も来鳴きて
   忍音 もらす 夏は来ぬ

心に残る名曲 その二百七 日本の名曲 中田喜直 「雪の降る街を」

現在の東京都渋谷区は、かつて東京府豊多摩郡と呼ばれていました。中田喜直はそこの出身です。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男でした。やがて「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」、「夏の思い出」などを作曲し、今日も小中学校の音楽の時間で歌い継がれています。数々の童謡、楽曲を作曲した日本における20世紀を代表する作曲家の一人といえましょう。

まず、「夏の思い出」のことです。作詞は江間章子で、彼女は幼少の頃、岩手山の近くの八幡平市に住んでいたようです。そこは水芭蕉の咲く地域でした。昭和19年頃、たまたま尾瀬を訪れて一面に咲き乱れる水芭蕉を見ます。昭和22年にNHKから依頼されとき、思い浮かんだのが尾瀬の情景で、その印象を綴ったのが「夏の思い出」といわれます。NHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」で全国に行き渡り、おかげで尾瀬は有名になったというエピソードもあります。

次ぎに「雪の降る街を」のことです。1952年に発表され大ヒットします。この曲を作詞したのは後に劇作家として活躍する内村直也です。「雪の降る街を」はNHKの「みんなのうた」の1回目に登場し、歌は立川澄人が歌います。高英男の歌唱によりレコードも制作されるとさらに人気が高まります。高英男の甘く高雅な歌い方は聞く者をしびれさせていきます。後に中田は女声合唱、混声合唱に編曲していきます。

歌の出だしは、 「雪の降る街を想い出だけが通りすぎてゆく」、「雪の降る街を足音だけが追いかけてゆく」、「雪の降る街を息吹とともにこみあげてくる」
そして、「温かき幸せのほほえみ」、「緑なす春の日のそよ風」、「新しき光降る鐘の音」と締めくくるのです。雪の暖かさが伝わるような歌詞と旋律です。

心に残る名曲 その二百五 日本の名曲 大中 恩 「サッちゃん」

父親は『椰子の実』の作曲者である大中寅二です。父が教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことが、大中の音楽への関心を向けます。ただ、教会の聖歌隊にいた女性に憧れたというエピソードも残しています。1942年に東京音楽学校の作曲科入学します。しかし、1943年10月の学徒出陣で海軍に召集されますが、その直前に作った北原白秋作詞の混声合唱曲「わたりどり」は戦場に向かう備えで書いたといわれます。

復員後、1945年に音楽学校卒業し歌曲集、佐藤春夫作詞「五つの抒情歌」、「しぐれに寄する抒情」、三木露風作詞の「ふるみち」を作ります。その後は子どものための音楽作りをライフワークとします。時代を超えて歌い継がれている曲に佐藤義美作詞の「犬のおまわりさん」、阪田寛夫の作詞の「サッちゃん 」、「おなかのへるうた」があります。阪田と大中は従兄弟でした。大中の作風は、歌詩に基づく優しいメロディとリズム、美しい語感をたたえた和声が特徴といわれます。

わたりどり」 北原白秋 作詞
  あの影は渡り鳥、
   あの耀きは雪、
    遠ければ遠いほど空は青うて、
   高ければ高いほど脈立つ山よ、
    ああ、乗鞍嶽、
     あの影は渡り鳥。

うたのおばさん 松田トシ

心に残る名曲 その二百四 清水 脩 「月光とピエロ」

日本の合唱界に大きな足跡を残したのが清水脩です。1911年に大阪で生まれます。父親は四天王寺で雅楽楽人だったようです。中学の頃から簡単な合唱曲を書いていたという記録があります。

大阪外国語大学に入り、そこでグリークラブの指導者となります。フランス語に精通し、フランス音楽の研究、特にドビュシー(Claude Debussy) の文献を調べます。1937年に東京音楽学校に入学し橋本国彦らに作曲法を学びます。

1939年の第八回音楽コンクールで「花に寄せた舞踏組曲」が第一位となります。戦後は全日本合唱連盟で合唱の指導にあたります。1950年に「インド旋律による4楽章」が芸術賞となり、1954年の最初のオペラ「修善寺物語」が同じく芸術賞を受賞します。

合唱曲は男声合唱が多く堀口大学作詞の組曲「月光とピエロ」、「山に祈る」等があります。著作や訳書も多い作曲家です。

心に残る名曲 その二百三 日本の名曲 平井康三郎の「平城山」 

1910年高知県で生まれ、1936年に東京音楽学校研究家作曲部を修了します。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたっています。

東京音楽学校で教鞭をとりながら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲します。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わります。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等として活躍します。

1965年には「詩と音楽の会」を結成し、日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行っています。小学校や中学校の校歌も数多く手がけたことでも知られています。「さくらさくら」「ゆりかご」は彼の手によって作られます。そうした作曲活動の功績で紫綬褒章、勲四等旭日章、毎日出版文化賞等多数の栄誉を受けています。

心に残る名曲 その二百二 日本の名曲 宮城道雄 「春の海」

神戸で1894年に生まれた宮城道雄は、やがて邦楽に洋楽的要素をいれた新様式の作品を多数発表し、演奏家としても活躍し大正と昭和の邦楽界に革命的な業績を残した作曲家です。

1902年に失明しますが、生田流箏曲と野川流三弦を伝授されます。既習の曲の反復から脱し、自ら作曲を志していきます。そして処女作となる「水の変態」を発表します。1920年に本居長世とで「新日本音楽」と銘打って新作発表会を開きます。この頃、尺八の中尾都山とともに全国を巡演していきます。

草創期のレコードやラジオ放送にも積極的に参加し、作品と演奏を世に広めます。古典様式の新作曲にも力を入れるとともに、古典音楽の勢力からも高く評価されるようになります。そして1932年には、東京音楽学校の教授まで登りつめます。1933年にはフランスのヴァイオリン奏者シュメ(Renee Chemet)が宮城の箏とで「春の海」を合奏しレコード化していきます。

宮城道雄Renee Chemet

心に残る名曲 その二百一 日本の名曲 草川 信 「ゆりかごの唄」

草川 信は長野県埴科郡の出身です。長野師範学校附属小学校、現在の信州大学教育学部附属長野小学校で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学を経て、東京音楽学校に進みます。そこでバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事します。

卒業後は渋谷区立小学校訓導や東京府立第三高等女学校教諭などを経験します。そのかたわら、演奏家として活動していきます。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がけるのです。実兄、草川信雄も同校卒業生で今も飯田橋にある富士見町教会オルガニストでありました。富士見町教会といえば植村正久という有名な神学者が初代の主任牧師となった由緒ある教会です。

草川は童謡で広く知られ「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など多数の名曲を残しています。ヴァイオリニストだった影響でしょうか、流れるような旋律が特徴でどれもわらべうた的な雰囲気で抒情的です。

ついでですが、「夕焼け小焼け」の作詞家中村雨紅は八王子市の上恩方というところの出身です。

心に残る名曲 その二百 日本の名曲 近衛秀麿 「越天楽」

このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。

1925年に帰国後は、山田耕筰の日本交響楽協会の結成に加わり、その後新交響楽団を組織します。彼は欧米に12回にわたり出掛け、90あまりの交響楽団を指揮するという珍しい経歴があります。近衛秀麿は日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人でもあります。北原白秋の詩に作曲した「ちんちん千鳥」、雅楽の「越天楽」などが知られています。

日本を代表する指揮者であり、またナチス政権下のドイツ・欧州でユダヤ人演奏家の亡命をサポートしていたという事実が近年話題となっています。その人物が近衛秀麿だというのです。「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜亡命オーケストラの謎〜」が放映され、近衛秀麿のヨーロッパにおける第二次大戦まえの行動が描かれています。