ドイツのミュンスター(Münster) という街で司教、そして枢機卿となったクレメンス・フォン・ガーレン(Clemens von Galen)という聖職者のことを紹介します。ガーレンは、国家社会主義ドイツ労働者党であるナチス政権の障害者安楽死計画(murder of people with disabilities,euthanasia)、別名T4作戦の実施に公然と批判の声を上げたことで有名なカトリックの司祭です。ミュンスターはドイツの西側に位置するヴェストファーレン州(Westphalia)の上級中心都市です。

ガーレンはミュンスターの聖ランベルト教会(St. Lambert’s Church) の司祭に就任します。当初、彼は政治的保守主義者とみられていました。ワイマール政権(Weimar)は、第一次大戦の巨額の賠償金、ハイパーインフレ、そして世界恐慌による社会不安に苦しんでいました。そして、1933年1月にヒトラー内閣が成立し、事実上の崩壊を迎えます。ガーレンは、当初は疲弊した国の立て直しのためにヒトラー内閣に期待していました。そのような背景で、1933年6月にミュンスターで開かれたカトリック知識人協会(Association of Catholic Academicians)の会合において、ガーレンはナチス政権を批判していた学者たちに反論し、「ヒトラーの新しい政治運動に対する公正かつ客観的な評価」を求めるのです。
1933年、ガーレンはミュンスター司教に選出されます。しかし、彼は前任の司教ヨハネス・ポッゲンブルク(Johannes Poggenburg)の後任として有力視されていたわけではなく、他の候補者が指名を辞退した末に選ばれた人物といわれました。1933年10月、ガーレンは「無神論や不道徳を公然と宣伝する動き」を根絶しようとするナチスの取り組みを支持する見解をとっていました。発足当初、ナチス党はカトリック教会へ共鳴し、宥和政策をとっていたのです。やがて、ナチス政権による「大統領緊急令」の濫用や独裁体制の確立によってワイマール憲法が実質的に形骸化し、ナチスは独裁の牙をむき始め、教会への締め付けも開始するのです。
1933年9月5日、ガーレンは教皇ピウス11世 (Pope Pius XI)によって司教に任命されます。10月28日、ミュンスター大聖堂にて、カール・ヨーゼフ・シュルテ枢機卿(Cardinal Karl Joseph Schulte)により司教聖別式が執り行われました。彼は自身のモットーとして「Nec laudibus nec timore(賞賛にも恐れにも屈せず)」を選ぶのです。これは司教聖別式の典礼で用いられる言葉であり、聖別を行う司教が、新任の司教が「おだてや恐れに屈することなく」職務を全うできるよう祈る際の一節といわれます。
司教として、ガーレンは国家による教育へのナチス党の全体主義的な介入に反対する運動を展開し、学校におけるカトリックの教えを堅持するよう保護者に呼びかけます。教会が独自の宗教教育を決定する権利を有すると定めた教皇庁と、ドイツ国との間の協約「帝国コンコルダート(Concordat)」の規定を根拠に、彼はナチスに対し、カトリック系学校でのカトリック教育の継続を認めさせます。これは教会が政府に対して帝国コンコルダートを援用した最初の事例の一つであり、教皇ピウス11世が意図していたことでもありました。
1933年、ミュンスターのナチス党員である学務局長(school superintendent)が、宗教教育の中で「イスラエルの民」が持つ「道徳を退廃させる力」について論じるよう命じる布告を出した際、ガーレン司教はこれを拒否します。彼は、学校のカリキュラムに対するそのような介入は教皇庁との協約(コンコルダート)に違反するものであり、子どもたちが「すべての人に慈愛をもって接する義務」や「イスラエルの民の歴史的使命」について混乱をきたす恐れがあると指摘しました。ガーレン司教は、協約違反に対してしばしばヒトラーに直接抗議を行います。1936年にナチスが学校から十字架を撤去した際にも、ガーレン司教の抗議は公然たるデモへと発展しました。またガーレン司教は、ミュンヘンのファウルハーバー枢機卿(Cardinal Faulhaber)やベルリンのプライジング司教(Bishop Preysing)らと共に、1937年に発布された教皇ピウス11世(Pope Pius XI)による反ナチスの回勅(encyclical)『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』(「燃えるような憂慮をもって」)の起草にも尽力していきます。


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