最も傑出した司教という評価

1941年に行われたドイツ司教団(episcopate)による声高な抗議ほど明白かつ効果的ではなかったのですが、1943年9月、フォン・ガーレン司教とドイツの他の司教たちは、ナチスの人種迫害を非難する新たな声明を起草します。そして、ミュンスター司教区およびドイツ全土のすべての教会でこれを読み上げるよう命じ、その中で「罪がなく無防備な知的障害者や精神疾患者、不治の病や致命傷を負った人々、罪のない人質、武装解除された捕虜や受刑者、異人種や異民族の出身者」の殺害を糾弾したのです。

聖ヨハネ・ボスコ教会

 ドイツの抵抗運動に関する歴史を著したセオドア・ハメロウ(Theodore S. Hamerow)は、ガーレン司教の抵抗のあり方を「第三帝国に対して内部から影響を及ぼそうとするもの」と評しました。体制への支持を装うことさえ拒否した聖職者もいた他方で、教会の自律性をめぐる国家との対立において、カトリックの上層部は「第三帝国を表面上は受け入れる」という戦略をとりました。彼らは批判を行う際、あくまで政府を強化するために「一部の熱狂的な支持者が犯した過ちを指摘する」という体裁をとったのです。そのため、カトリック上層部は、ガーレン司教がナチスの安楽死政策やゲシュタポの無法行為を糾弾する有名な演説を行った際にも、彼は、教会が「帝国政府の打倒」を求めたことは一度もないと述べているほどです。

 戦後、ガーレン司教は連合国占領軍によるドイツ国民への不当な扱いに抗議します。1945年4月13日、彼はアメリカ軍当局に対し、赤軍兵士によるドイツ人女性への集団レイプや米英軍によるドイツの家屋、工場、研究施設、企業、事務所からの略奪について抗議を行ったほどです。

 イギリス当局者との合同インタビューの際、ガーレン司教は国際報道陣に対し、「ナチスの不正義と戦ったのと同様に、私はそれがどこから来るものであれ、あらゆる不正義と戦うつもりだ」と語ります。彼は1945年7月1日の説教でも同様の主張を繰り返し、その説教は複写されて占領下のドイツ全土で非合法に配布されます。イギリス当局は彼に説教を直ちに撤回するよう命じるのですが、司教はこれを拒否します。彼の抵抗と幅広い人気を前に、当局はやむなく検閲なしに彼が自由に発言することを容認します。

ドイツ兵捕虜

 ガーレン司教はスイスのメディアとの会見で、ナチスの犯罪者には処罰を求める一方で、何ら罪を犯していないにもかかわらず英国側によって家族との連絡を絶たれている数百万人のドイツ人捕虜に対しては、人道的な扱いを求めたのです。彼は、調査や裁判を経ることなくドイツ人を公職から追放した英国の措置を批判します。また、共産主義体制下のポーランドやソビエト連邦に併合されたかつてのドイツ領土からドイツ人民間人が追放されたことについても、強く非難したのです。

 英国外務省(British Foreign Office)の文書は、ガーレン司教を「英占領地区の聖職者の中で最も傑出した人物」と評し、次のように述べています。「堂々たる体躯と議論における妥協なき姿勢を併せ持つ、この『樫の木 (oak)』のように強固な気骨ある老貴族は…根っからのドイツ民族主義者である」

総合的な教育支援の広場

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