ガーレン司教はナチズムやその人種理論に反対していたものの、無神論的なボルシェヴィズム(Bolshevism)の拡大に対する最後の防波堤はドイツであると信じていました。ボルシェヴィズムとは、ナショナリズム(民族主義)とボルシェヴィズム(共産主義・レーニン主義)を融合させた政治思想のことです。ウラジーミル・レーニンが率いたボリシェビキの思想に基づく、革命的社会主義・共産主義の政治思想および運動です。
1943年に行った説教の一部はナチスによって、対ソ連戦のための武装親衛隊へのオランダ人男性の志願を促すために利用されたと言われています。ガーレン司教は、ヒトラー統治下のドイツにおいてドイツのカトリック教徒が二級市民のような地位に追いやられることを懸念し、カトリック教会と国家がボルシェヴィズムに対抗して協力し得るという点を見落としているとしてヒトラーを批判していました。
ガーレン司教はナチスの政策や安楽死計画に対して果敢に異議を唱えたのですが、歴史家のベス・グリーク・ポレル(Beth A. Griech-Polelle)は、ユダヤ人の一斉検挙、強制送還、大量虐殺といった他の問題については沈黙を保っていたと記しています。ドイツの歴史家ヨアヒム・クロプカ(Joachim Kuropka)はこの指摘を「誤った判断」として退けます。クロプカは、 これまで十分な注目を集めてこなかったとされるヴィルヘルム・ダンベルク(Wilhelm Damberg)の発見に言及し、1938年6月にミュンスターの教区指導部がすべての司祭に対し、反ユダヤ主義に反対するパンフレット『現代のナタナエル問題(Die Nathanaelfrage unserer Tage)』を信徒に読むことを推奨するよう指示していたことを指摘したのです。
またクロプカは、ガーレンとミュンスターのユダヤ教ラビ、フリッツ・シュタインタール(rabbi Fritz Steinthal)との間に親密な個人的関係があったことも強調します。「水晶の夜(Kristallnacht)」事件後、ガーレン司教の命によりミュンスター教区のすべての教会でユダヤ人のための祈りが捧げられたというラビの記憶に基づく証言について、教会の記録にはその証拠が残っていないものの、クロプカはラインラント・ゲシュタポ(Rhineland Gestapo)の記録から裏付けとなる証拠を提示することができたと証言するのです。クロプカは、ガーレン司教のミュンスター教区におけるパンフレットの配布や祈りのキャンペーンがいかに異例なものであったかを強調するのです。「水晶の夜」事件とは、ホロコーストの一種で、ユダヤ人経営の商店や住宅、ユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)が襲撃され窓ガラスが徹底的に破壊され、路上に散乱したガラスの破片が月明かりにきらめいた様子から名付けられました。
ガーレン司教はナチスの政策や安楽死計画に対して果敢に異議を唱えたのですが、歴史家のベス・グリーク・ポレル(Beth A. Griech-Polelle)は、ユダヤ人の一斉検挙、強制送還、大量虐殺といった他の問題については沈黙を保っていたと記しています。ドイツの歴史家ヨアヒム・クロプカ(Joachim Kuropka)はこの指摘を「誤った判断」として退けます。クロプカは、これまで十分な注目を集めてこなかったとされるヴィルヘルム・ダンベルク(Wilhelm Damberg)の発見に言及し、1938年6月にミュンスターの教区指導部がすべての司祭に対し、反ユダヤ主義に反対するパンフレット『現代のナタナエル問題(Die Nathanaelfrage unserer Tage)』を信徒に読むことを推奨するよう指示していたことを指摘したのです。
しかしクロプカによれば、他の司教たちと同様に、ガーレン司教もユダヤ人迫害の問題に関して「世間に向けて声を上げる」適切な時期を逸してしまい、後に彼自身もそのことを自責の念をもって認めていたとされています。教皇やドイツの教会組織による公式な声明とは別に、ガーレン司教自身もナチスの人種差別思想を度々非難しており、1943年の司教団による司牧書簡(commemoration)『デカログ(Dekalog-Hirtenbrief)』において人種迫害が糾弾されたことにも、彼が少なからず関与していました。
戦後、ミュンスターのラビであったフリッツ・シュタインタールは、「水晶の夜」の後にガーレンが示した支援について証言を残しています。その中で彼は、ミュンスターの大多数のカトリック教徒がこの組織的迫害・虐殺ポグロムに戦慄し、実際には自分たちこそが次の犠牲者になるのではないかと恐れていたという確信を述べています。2012年の記念式典において、ホロコーストの生存者であり証人でもあるミュンスター在住のユダヤ人ハンス・カウフマン(Hans Kaufmann) は、1938年の「水晶の夜」の後にフォン・ガーレンがシュタインタールに救いの手を差し伸べた事実に言及しつつも、ミュンスターの他のユダヤ人犠牲者たちがその翌日に近隣住民から十分な助けを得られなかったことを嘆いたというのです。


コメントを残す