1941年7月と8月に行われたガーレン司教の恐怖政策への非難を込めた力強い3つの説教によって、彼には「ミュンスターの獅子(Lion of Münster)」という異名がつけられます。これらの説教は印刷され、非合法に配布されて安楽死計画は広く大衆に知れ渡ります。ヒトラーはガーレンを司教の座から追放しようとしましたが、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、それを行えばヴェストファーレン(Westphalia)住民の忠誠心を失うことになると進言したのです。
その理由は、ヴェストファーレンの住民はほぼカトリック教徒であったからです。説教は、ゲシュタポによる恐怖政治、安楽死、強制不妊手術、強制収容所といったナチスの政策に抗議するものでした。ナチスに対する彼の批判はあまりに激しかったため、ナチス高官で大管区長のヴァルター・ティースラー(Walter Tiessler)はドイツ労働者党の実質的ナンバー2である党官房長マルティン・ボルマン(Martin Bormann)宛ての書簡で、ガーレンを処刑すべきだと提案したほどでした。
1941年7月13日、ガーレン司教は、裁判なしの失踪、正当な理由の提示なきカトリック施設の閉鎖、そしてその結果としてすべてのドイツ国民に植え付けられた恐怖といった、ナチスドイツの悪名高い政治警察、ゲシュタポ(Gestapo) の恐怖の手法を用いて政権を批判し続けます。彼は、ゲシュタポは最も善良で忠実な市民でさえも、地下牢や強制収容所に送られるかもしれないという恐怖に陥れていると主張します。戦時下ではありましたが、ガーレン司教は自身の説教がドイツの連帯や結束を損なうという考えを否定しています。
教皇ピウス12世の言葉「平和は正義の業であり、正義は統治の基盤である(Opus Justitiae Pax / Justitia fundamentum Regnorum)」を引用し、彼は第三帝国が正義への信頼を損ない、ドイツ国民を恒久的な恐怖、さらには臆病な状態にまで追い込んでいると非難します。そして、説教の終わりに「ドイツ人として、また善良な市民として、自分は正義を要求する」と結ぶのです。



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