琉球王朝は、中国からの使者をもてなすために組踊など琉球舞踊や「琉球料理」を宮廷文化として高めました。これにより、中国側に対して「礼節と文化に満ちた独自の気高い国である」と思わせることに成功するのです。薩摩に対しては、貿易の利益をもたらす存在として、中国に対しては忠実で文化的な朝貢国として、自らの価値を全方位にアピールし続けたのです。
独自の文化を磨いた琉球は、幕府の将軍が代わる際などに、江戸へ「慶賀使」や「謝恩使」という使節団を派遣しました。幕府は、異国の衣装をまとった琉球使節団を江戸城に迎えることで、徳川将軍の威光は、日本国内だけでなく琉球にまで及んでいる、というデモンストレーションとして利用しました。使節団が通る東海道などには、使節団を一目見ようと多くの民衆が集まり、日本本土でちょっとした琉球ブームが起きたといわれます。
この薄氷を踏むような互恵外交は、1609年から1879年の「琉球処分」によって沖縄県が設置されるまで、約270年間も続きました。琉球王国は、大国の狭間で主権を制限され、経済的な搾取に苦しみながらも、したたかな文化的外交を展開することで、自らのアイデンティティと王統を守り抜いたのです。この時代に磨き上げられた宮廷芸能や食文化、礼節の精神が、現代の沖縄文化の大きな骨格となっています。
琉球独特の「組踊」のことです。組踊は、18世紀初頭の琉球王国で生まれた独自の歌舞劇です。2010年にはユネスコ無形文化遺産にも登録され、現代の沖縄を代表する伝統芸能として大切に守られています。大国の狭間で揺れる琉球王国が、国の威信をかけて創り出した組踊の歴史は興味深いものがあります。
組踊が生まれた歴史的背景は、1719年、清からやってくる冊封使を歓迎する宴の席でした。時の国王、尚敬の命を受け、おもてなしの総責任者として「踊奉行」に任命されたのが、当時36歳で天才芸術家と呼ばれた玉城朝薫です。朝薫はそれまでに、薩摩への留学や、江戸へ派遣された使節団への随行を通じて、本土の芸能である能、狂言、歌舞伎を深く鑑賞し、その構造を学んでいました。さらに、中国の古典劇である京劇の真髄も理解していました。朝薫のイノベーションといわれる「日本の能や歌舞伎のドラマ性」と「中国の演劇の様式」をベースにしながら、台詞を琉球の古語にし、音楽を三線を中心とした琉球古典音楽に置き換えたのです。これにより、これまでにない全く新しい琉球独自の歌舞劇「組踊」が完成したのです。
1719年9月9日の重陽の宴で、朝薫の処女作である『二童敵討』と『執心鐘入』が披露されると、中国の使者たちはその洗練された美しさと高い精神性に深い感銘を受け、絶賛したといわれます。こうして組踊は、いわば琉球の外交を支える最強の武器となったのです。陰陽道で縁起の良い「陽」の数字である「9」が重なり目出度いので宴が催されたのです。
組踊の3つの大きな特徴です。組踊は、大きく分けて「唱え」「踊り」「音楽」の3つの要素で構成されています。
・独特のせりふ回し:「唱え」は現代の演劇のように普通に喋るのではなく、独特の抑揚(メロディ)をつけて語られます。また、言葉の基本は「八・六・八・六」の琉歌の音数律になっており、格調高く美しいリズムを持っています。
・能をベースにした様式美:「踊り」登場人物の動きは、能の影響を強く受けており、極限まで無駄を削ぎ落とした静かで上品な歩き方や手の動かし方の所作が基本です。感情の表現も象徴的で、例えば悲しい時は、顔の前に静かに手をかざす「泣きの手」という所作一つで、深い哀愁を表現するのです。
・ 舞台を支配する生演奏:「地謡」舞台の進行や登場人物の心情は、ステージ上手に座る「地謡」と呼ばれる演奏者たちによって表現されます。三線、箏、笛、篳篥、太鼓の生演奏と唄が、現代の映画音楽のように劇の効果を高め、物語をドラマチックに引っ張っていきます。

玉城朝薫が作った作品のうち、特に傑作とされる5つの演目は「朝薫の五番」と呼ばれ、現在でも繰り返し上演されています。この作品は、大きく2つのジャンルに分かれます。ジャンルの主な演目特徴ですが、ストーリー仇討物の『二童敵討』、そして『護佐丸仇討』という親を殺された子どもたちが、機転を利かせて見事に復讐を果たす、忠義と勇気の物語です。日本の「曾我兄弟の仇討ち」などの影響を受けているようです。
『執心鐘入』、『銘苅子』、『女物狂』など人間の愛憎や親子の情愛を描いた人間ドラマもあります。『執心鐘入』は、能の『道成寺』をベースに、恋い慕う男に拒絶された女が「鬼女」へと変貌する、組踊屈指のホラー・サスペンス傑作となっています。
では、なぜ「男性」だけで演じられたのか?歌舞伎などと同様に、琉球王国の組踊もすべて士族の青年たちによって演じられていました。当時は「公の場で女性が踊ること」が禁じられていたため、女性の役も美しい声と容姿を持った若い男性士族が演じていました。彼らは王府の役人でありながら、外交のために厳しい稽古を重ねた「国家公務員の芸術家」だったのです。
薩摩の侵攻後、主権を制限されていた琉球王国ですが、組踊という芸能を通じて中国の使者、そして日本に伝えたかったのは、「自分達は武力は小さくとも、これほど高い精神性と礼節、そして豊かな文化を持った誇り高き民である」という強いメッセージを伝えたのです。悲劇的な状況の中でも、決して野蛮に流れず、美を極めることで国を守ろうとした琉球人の智慧とプライドが、この「組踊」という結晶の中に今も息づいているといえましょう。



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