売春に対する認識は、社会によって異なる文化的価値観に基づいています。ある社会では売春婦が公認された職業の従事者と見なされてきた他方で、別の社会では忌み嫌われ、激しく非難され、投石や投獄、あるいは死刑といった罰を科されてきました。売春の客に対して同様の厳しさをもって臨んだ社会はほとんどなく、実際、多くの社会において、客が法的な制裁(repercussions)を受けることはあってもごくわずかか、あるいは全くないのが実情でした。
Wikipediaによりますと、古代アナトリア(Anatolia)、現在のトルコ周辺の「リュディア」(Lydia)や古代イタリアの「エトルリア(Etruria)」、アルジェリアの「ウレド・ナイル族(Ouled Naïl)では、思春期(puberty)の通過儀礼(rite of passage)や持参金(dowry)を得る手段として少女に売春が求められたこともあり、特定の階級の巫女に売春を義務付けた宗教さえ存在しました。
古代ギリシャやローマでは、売春婦に対して特徴的な服装の着用と重い税の支払いが義務付けられていました。ヘブライ法(Hebrew law)は売春を禁止してはいませんでしたが、その対象を外国人女性に限っていたといわれます。これらは現代の感覚から見ると極めて驚きですが、当時は女性が自立して結婚資金を確保する手段や豊穣と多産を願う神聖な通過儀礼として、社会的に非難されるどころか、むしろ承認された営みであったことが特徴的です。
中世ヨーロッパ(Middle Ages)では、教会の指導者たちは、悔い改めた売春婦を更生させ、その持参金を工面しようと試みました。それにもかかわらず、売春は盛んに行われたといわれます。それは単に売春が黙認されていただけでなく、法によって保護・認可・規制され、重要な公的歳入の源泉ともなっていたのです。ヨーロッパ各地の大都市には公認の売春宿(brothels) が設けられました。フランスのトゥールーズ(Toulouse)では、その収益が市と大学の間で分配されていました。またイギリスでは、売春宿は当初ウィンチェスター司教(Winchester)によって、後には議会によって認可されていました。
現代の感覚からすると、大学や教会、あるいは議会といった公的・倫理的な機関が売春宿の運営や収益に関わっていたというのは信じがたいことかもしれませんが、中世、特に12〜16世紀頃のヨーロッパでは、売春は「社会的秩序を保ち、より大きな大罪や無秩序を防ぐためのもの必要悪」として、公的に認可、管理されるのが一般的でした。
19世紀後半、西洋社会における様々な変化を背景に、売春を抑制しようとする動きが再燃しました。フェミニズム(feminism)の台頭に伴い、男性の放蕩を女性の地位や身体的健康に対する脅威と見なす人々が増えました。また、プロテスタント諸国における宗教に基づいた新たな道徳主義も影響を及ぼしました。
1860年代以降、禁酒運動(temperance movement) や女性参政権運動と連携する形で、売春反対運動が活発化しました。売春を目的とした女性人身売買を根絶するための国際的な協力体制は1899年に始まりました。1921年には国際連盟(League of Nations)が「婦人児童売買問題委員会」を設置し、1949年には国連総会が売春の抑制に関する条約を採択しました。
アメリカにおいて売春の取り締まりは、1910年に連邦法であるマン法(Mann Act)が成立するまでは、せいぜい散発的なものに過ぎませんでした。同法は、不道徳な目的での女性の州間移送を禁止するものでした。1915年までには、ほぼすべての州が、売春宿を禁止したり、売春による収益を規制したりする法律を制定されていました。
第二次世界大戦後も、多くの西側諸国では売春が禁止され続けましたが、一部の都市では非公式に容認されていました。多くの法執行機関は、売春に伴う犯罪、特に客を標的とした窃盗や強盗の取り締まりを重視するようになりました。また当局は、少女が強制的に売春に従事させられることを防ぐための介入も行いました。現在、アメリカの大部分の地域で売春は違法とされていますが、ネバダ州(Nevada)の一部の郡では合法とされています。

コメントを残す