慰安婦問題 その6 からゆきさん

明治中期から大正期にかけて、貧しい農漁村の女性たちが、東南アジアや中国大陸へ渡って働く「からゆきさん」と呼ばれる現象も起きました。からゆきさんとは、もともと九州西部、特に長崎県の島原半島や熊本県の天草諸島の方言で、「唐など広く海外へ行く」という意味でした。かつては男女を問わず海外へ出稼ぎに行く人全般を指していましたが、次第に海外の遊廓などで娼婦として働く女性たちを指す言葉へと変化していきました。

長崎文献社より引用

 からゆきさんの渡航先は非常に広範囲に及びました。主な地域は、シンガポール、マレー半島、オランダ領東インドインドネシア、フィリピン、上海や香港、ウラジオストク,インド、オーストラリアなどです。これは当時の日本の外貨獲得の一端を担っていた側面もあります。1920年前後を境に、現地領事館などによる廃娼の取り組みが進み、多くのからゆきさんが帰国を余儀なくされました。

 からゆきさんは、長らく日本近代史の「闇」としてタブー視され、忘れ去られようとしていましたが、1972年にノンフィクション作家の山崎朋子が著した『サンダカン八番娼館 望郷』によって、彼女たちの存在と過酷な生涯が広く世に知られるようになり、のちに映画化され、歴史的な再評価や救済の議論が行われました。やがて婦人矯正会などキリスト教系の団体や人道主義的な知識人によって、公娼制度の廃止を求める「廃娼運動」が活発化し、一部の県では公娼が廃止される動きも出始めました。

 第二次世界大戦の敗戦を機に、日本の売春を巡る法的・社会的な枠組みは決定的な転換期を迎えます。終戦直後、占領軍(GHQ)の兵士による性犯罪を防ぐという名目で、政府主導で特殊慰安施設協会 (Recreation and Amusement Association: RAA)が設立されました。その後、GHQの指示により公娼制度は廃止されましたが、警察が事実上営業を黙認した地域は地図に赤い線で囲まれたことから赤線地帯と呼ばれ、存続しました。一方、全くの非公認地域は青線と呼ばれました。

 女性議員たちの尽力や世論の高まりを受け、1956年に「売春防止法」が成立しました。これにより、処罰規定が全面施行された1958年4月1日をもって、日本における遊廓や赤線という公認の売春の歴史は法的に幕を閉じました。

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