第二次世界大戦中の1944年6月、ノルマンディー上陸作戦の最中にナチス・ドイツ装甲師団の装親衛隊によってカナダ兵捕虜がアルデンヌ修道院(Abbaye d’Ardenne)で殺害されます。この捕虜銃殺事件への関与で告発され、死刑判決を受けた同師団の司令官で親衛隊少将クルト・マイヤー(Kurt Meyer)に対し、ガーレン司教は助命を訴えます。「私に報告されたところによれば、クルト・マイヤー少将が死刑を宣告されたのは、彼が指示も承認もしていない犯罪を部下たちが犯したためです。人は自らの行為に対してのみ責任を負うとするキリスト教的法理の立場から、私はマイヤー少将への寛大な処置を支持し、その恩赦を求めます。」その後、再審理を行ったカナダの将軍が「状況証拠の積み重ねしかない」と判断したため、マイヤーの死刑判決は禁錮刑へと減刑されます。そしてマイヤーはイギリスおよびカナダの軍事刑務所で9年間服役しました。
1945年のクリスマス、教皇ピウス12世が新たに3人のドイツ人枢機卿(cardinal)を任命することが明らかになりました。その3人とは、クレメンス・フォン・ガーレン司教、ベルリンのコンラート・フォン・プライジング司教(Bishop Konrad von Preysing)、そしてケルン(Cologne)のヨーゼフ・フリングス大司教(Archbishop Josef Frings) でした。イギリス側による数々の妨害や航空機利用の拒否にもかかわらず、ガーレン司教は1946年2月5日にローマへ到着します。ドイツ通貨が通用しなかったため、ローマ滞在中の費用はアメリカの枢機卿たちが負担します。
ガーレン司教はすでに有名かつ人気のある人物となっていたのです。教皇が「神があなたを祝福し、ドイツを祝福せんことを」という言葉と共に彼に赤い枢機卿帽(red hat) を授けると、サン・ピエトロ大聖堂(Saint Peter’s Basilica)はガーレンを称える「勝利の拍手」に数分間包まれたといわれます。1946年2月18日、彼はピウス12世によって「サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会(San Bernardo alle Terme)」を名義教会とする司祭枢機卿(Cardinal-Priest)に任命されます。
ローマ滞在中、彼はターラント(Taranto)にあるドイツ人捕虜収容所を訪問し、ドイツ国防軍の兵士たちに対して、彼らの釈放のために尽力すること、そして教皇自身も捕虜の釈放に取り組んでいることを伝えます。また、彼が兵士たちの家族へ届けるために預かった、多くの心温まる個人的なメッセージも携えていました。

枢機卿の赤い帽子を授与された後、ガーレン枢機卿は教皇の侍従であるマドレ・パスカリーナ(Madre Pascalina)のもとを訪れます。彼は彼女に、教皇が1941年に行った自身の説教の長い一節を暗唱してみせたことや、その勇気ある行動に対して教皇から感謝の言葉をかけられたことを伝えます。ガーレン枢機卿は教皇にこう言ったといわれます。「聖父よ、私の最も優れた司祭たちの多くは、私の説教を配布したために強制収容所で命を落としました」。
それに対して教皇ピウス12世は、もし教皇である自分が抗議の声を上げていれば、何千人もの罪なき人々が確実に死へと追いやられていただろうということを常に認識していた、と答えるのです。二人はベルリンでの往時について語り合い、ガーレン枢機卿はこう断言します。「何ものにも代えがたい2時間でした。たとえこの赤い帽子と引き換えにするとしても、あの時間を経験せずにいることなど望みません」

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