見えざる手の導きによると思われた1971年から1977年までの沖縄・那覇での生活は、思い出に残るものです。アメリカの施政権下での琉球政府の統治や本土復帰運動の両方を目の当たりにし、小雨が降る1972年5月15日の本土復帰の時を経験しました。この日は奇しくも長男の誕生日でした。琉球独立と、本土復帰の二つの狭間に置かれた沖縄の人々の複雑な思いに触れることができたのは幸いでした。本稿では、いくつかのエピソードを記すことにします。

沖縄は「琉球」と呼ばれた時代が長く続きました。琉球という地名の由来は、島々が龍に似ていたのでつけられたという説、「沖縄」は沖合い(おき)の漁場(なは)から由来したという説です。私が沖縄で幼児教育を始めるようにとの指示で沖縄へ派遣された1971年は、まだ琉球であり琉球民政府が統治していました。
繰り返しますが現在の沖縄県は、かつては琉球王朝と呼ばれた一つの独立国でした。1429年に中山王の尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を創設します。琉球王国は、明と清の冊封使を受け入れながら、上手に独立を保っていました。やがて清が衰退し、薩摩や明治政府の影響を受けます。この経緯はすでに述べてきたとおりです。
独立国であった琉球王国は三度潰えていく経緯を辿ります。第一は1872年に明治政府によって琉球藩が設置され,その後琉球藩を廃して沖縄県を設置したいわゆる琉球処分、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の沖縄返還、いわゆる本土復帰です。
1952年に琉球政府が創設されます。長である行政主席は民政府によって任命されます。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官のフェルディナント・アンガー(Ferdinand T. Unger)の赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされます。平良師は祈ります。「神よ、沖縄にはあなたのひとり子、イエスキリストが命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をして、これら市民の人権の尊厳の前に深く頭(こうべ)を垂れさせてください。神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。」 この勇気ある祈りは、今も語り草となっています。
平良牧師は、東京神学大学と米国のジョージ・ピーボディ大学(Peabody College of Education and Human Development)を卒業し、沖縄キリスト教短期大学長などを歴任し,日本基督教団佐敷教会を牧会します。米国留学中に黒人公民権運動に接しその影響を受けたということが、彼の私記にあります。アンガーは1968年に行政主席を公選とすることを発表します。その主席選挙よって当選したのが沖縄教職員会長などを務めていた屋良朝苗氏です。後に彼は初代の沖縄県知事となります。
1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期でありました。琉球からB52をはじめとする爆撃機や戦闘部隊、兵站物資が送られます。その間、ヴェトナム戦争に荒んだ米軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本土復帰の運動が広まります。1970年12月のコザ暴動はその典型で、米国兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ち事件です。その背景に米施政権下での圧制や人権侵害に対する沖縄人の大きな不満がありました。


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