国民の祝日として制定

ワシントンD.C.に本部を置く保守系・中道右派の公共政策シンクタンク、アメリカン・エンタープライズ研究所(American Enterprise Institute for Public Policy Research: AEI)のエイミー・カス(Amy Kass)とレオン・カス(Leon Kass)は、コロンブス・デイがどのような経過で制定されたかを次のように説明しています。

コロンブス・デイをイタリア系アメリカ人独自の祝日として祝う動きは、1866年のニューヨーク市で、恒例の射撃大会に合わせて催された晩餐会とダンスパーティーから始まりました。1869年までには、ニューヨークではカーニバルやパレードに加え、港に停泊する船をイタリアとアメリカの国旗で飾ることも行われるようになりました。サンフランシスコのイタリア系アメリカ人は1869年に初の「発見の日(ディスカバリー・デー)」パレードを実施し、この恒例行事にはやがて、コロンブスが新大陸に初めて足を踏み入れた場面の再現劇も組み込まれるようになりました。

 1876年までには、セントルイス(St. Louis)、ボストン(Boston)、シンシナティ(Cincinnati)、ニューオーリンズ (New Orleans)でもコロンブス・デーの祝賀行事が毎年行われるようになっていました。イタリア系アメリカ人は、この探検家を聖人に列聖させるための運動さえ起こしました。ローマ教皇庁は納得しませんでしたが、コロンブスが奇跡を行ったという記録は誰にも知られていなかったため、1892年、教皇レオ13世(Pope Leo XIII)は特別回勅(special encyclical calling)を発布し、南北アメリカおよびヨーロッパのすべての聖職者に対し、コロンブス・デイごとに特別ミサを執り行うよう呼びかけました。

 この日が国民の祝日として制定されるきっかけとなった出来事は、実に陰惨なものでした。1891年、ニューオーリンズで地元の警察署長殺害の容疑をかけられたイタリア系移民11人が、無罪判決を受けたにもかかわらず、依然として勾留されていました。彼らを「マフィア」と決めつける人種差別的かつ排外主義的なプロパガンダに扇動された暴徒が、この11人全員を殺害したのです。実際に彼らの中にマフィア構成員がいたかどうかは不明です。

 この殺害事件は概して「善良なこと」と見なされていました。事実、公務員委員会委員(Civil Service commissioner) であり、後に合衆国大統領となるセオドア・ルーズベルト (Theodore Roosevelt)でさえ、事件からわずか7日後に姉妹への手紙の中で次のように書いています。「夕食会には数人のイタリア人外交官が同席していたが、彼らは皆、ニューオーリンズでのイタリア人リンチ事件にひどく動揺していた。個人的には、あれはむしろ良いことだったと思うし、そう言った……」

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