ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアン(rotarian)と呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において人々の福祉や生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することが求められています。平和の推進、母子の健康、疾病との闘い、教育の支援などに貢献する活動です。
那覇市内には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会ったのです。この方は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を日本軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦争で九死に一生を得たご体験の持ち主でした。戦後沖縄ナショナル特機という会社を立ち上げ、同時にロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員でありました。
国吉氏は筆者をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。それと共に那覇ルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれ、沖縄駐留米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。国吉昇氏は餞別として100ドル札をくださいました。こうしてようやく1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。その頃、設立に奔走した丘の上幼稚園は増築され、年長と年少の二組となり、教師も二人となりました。渡米をきっかけに丘の上幼稚園との縁は切れました。

この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進んでいきました。それに伴い沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレミヨンの部厚いステーキが4〜5ドルで、1,500円くらいでした。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に跳ね上がりました。
復帰当日の1972年5月15日には 305円まで円高が進んでいました。 米軍統治下の沖縄では通貨として米ドルが使われていたため、円高が進むと県民が持っている現金や預金の価値(円換算での資産)が目減りしてしまうという深刻な問題が生じました。 この事態に対し、日本政府と琉球政府は1971年10月に極秘で「通貨確認」と呼ばれる一斉調査を実施します。そして事前に把握、確認した一定額のドル資産についてのみ、かつての固定レートである 1ドル=360円 と復帰時のレート1ドル=305円との差額、55円分を日本政府が給付金として補償することで、沖縄の人々の生活や資産を守る特別措置が取られました。
やがて沖縄の新聞やテレビは、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。本土復帰前は、琉球独立論も盛んに流布されていました。復帰によって本土からさまざまな制度、人と物がやってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄はほとんど本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、中央の国家権力がいかに強大かを思い知らされることになったのでした。


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