フランス・レジスタンスとカトリック司教

第二次世界大戦の諜報活動でフランス・レジスタンスの実話があります。カトリック大聖堂のスパイ・ネットワークで活躍したカトリックの司教のことです。その主人公は、ピエール=マリー・テアス(Pierre-Marie Théas)という司教です。ナチス占領下のフランスで、連合国の諜報作戦に協力した宗教的レジスタンスの一人です。テアスは、1920年9月16日に司祭に叙階され、1940年7月26日にはモントーバン司教(bishop of Montauban)に任命されます。モントーバン(Montauban)は、フランスの南部の県庁所在地でした。

Pierre-Marie Théas

 1942年、トゥールーズ大司教(Archbishop of Toulouse)のジュール=ジェロー・サリエージュ(Jules-Géraud Saliège)がユダヤ人への不当な扱いを強く非難した際、テアスも他のフランスの司教たちと共に、ナチスの絶滅収容所へ送るためのユダヤ人一斉検挙を非難します。彼は1942年夏、ナチスによるユダヤ人強制送還を糾弾する司教書簡(Ecclesiastical letter) を執筆し、その中で次のように述べました。

「私はキリスト教徒の良心に基づく憤りの声を代弁し、宣言する……人種や宗教を問わず、すべての人間は個人からも国家からも尊重される権利を有していると。」

 司教たちによるこの抗議行動は、それまで受動的であったフランス・カトリック教会の姿 勢における転換点であったと、多くの歴史家によって見なされました。マリー=ローズ・ジネステ(Marie-Rose Gineste)という抵抗運動家は、テアス司教の司教書簡を自転車で40の小教区へと運ぶのです。その書簡は、「野生動物のように扱われる」男女が強制的に連行される事態を非難するものでありました。

 大戦中、ゲシュタポはモントーバン大聖堂を17回も捜索したといわれます。ですが鐘楼に隠された無線機や聖具室で作成されていた偽造文書、そして中世の地下聖堂を隠れ家としていたイギリスの工作員たちを発見することはありませんでした。この戦争で最も大胆な諜報作戦の一つを指揮した人物は、訓練を受けたスパイではありませんでした。それはドイツ占領下のフランスで最も危険な場所へと変貌させた70歳のこの聖職者だったのです。告解室(confession room) は秘密の受け渡し場所ーデッド・ドロップ(Dead drop) となり、教会の鐘は町中のレジスタンス闘士たちへの合図に使われ、ナチスの将校たちは、ロンドンへ連合国の無線通信が送られているまさにその真上でミサに参列していました。

 さらにフランスのレジスタンスが秘密の暗号情報をロンドンへ密かに運び出し、BBCの「ラジオ・ロンドン(Radio Londres)」を通じてフランス国内へ放送したことで、数万世帯にその内容が届けられるのです。テアス司教はその後もナチスの政策に反対し続け、1944年には司教座聖堂での熱烈な説教の中で、「同胞に対する残酷かつ非人道的な扱い」を糾弾します。その説教の翌夜、彼はゲシュタポに逮捕されます。強制収容所に送られ10週間を過ごした後、彼は釈放され自身の教区へと戻ります。

 戦後の1945年3月、彼は和解と平和を求める運動「パクス・クリスティ(Pax Christi)(キリストの平和)」の初代会長に就任した。マルト・ドルテル・ショド(Marthe Dortel Chaudot)という女性の運動家は、第二次世界大戦期の激しい戦禍とホロコーストを経験する中で、敵対していたドイツ人との和解や将来的な不条理の防止を願い、1944年末にフランス南部でドイツの聖職者や人々のための小さな祈りのグループを立ち上げました。このグループは、当初は主にフランスとドイツの和解を目指していましたが、1952年には教皇ピウス12世(Pope Pius XII)によって公式なカトリック平和運動として承認されました。

ヤド・ヴァシェム

 テアス司教は1947年2月に教皇ピウス12世からタルブ・ルルド司教(Tarbes and Lourdes)に任命され、1970年2月12日に引退しました。引退に際してはサンクトゥス・ゲルマヌス(Sanctus Germanus)の名義司教区に任命されましたが、同年中にその職を辞任しています。彼は解放の神学を信奉していたことで知られ、次のような言葉を残したとされています。

「抑えがたい力に突き動かされ、現代世界は革命を求めている。その革命は成功せねばならないが、成功しうるのは、教会が福音を携えてその闘争に加わる場合のみである。ナチスの独裁から解放された今、我々は労働者階級を資本主義の隷属状態から解放したいと願っている。」

 テアス司教はゲシュタポの最も恐れた尋問官を欺き、自らの逮捕と拷問を生き延びました。司教館の門戸を開放して偽造書類の作成場所を提供したほか、管轄下の学校や修道院などのカトリック施設に命じてユダヤ人の子どもや家族を匿わせました。この功績により、1969年にイスラエルのヤド・ヴァシェム(Yad Vashem)より「諸国民の中の正義の人司教は、信仰が勇気や戦略的才覚と結びついたとき、いかに強力な武器となり得るかを証明した」として顕彰を受けました。ヤド・ヴァシェムとは、ナチス・ドイツによるホロコーストの犠牲者達を追悼するためのエルサレムにある国立記念館です。

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