1935年6月、ガーレン司教は再洗礼派(Anabaptists)の異端と「ユダヤ人の罪(sins of the Jews)」を結びつける説教を行います。彼は聴衆に対し、「教会に耳を傾けない者は異教徒であり、公式に罪人である」と問いかけます。また、「イスラエルの民がいかにして救い主を貶めたか」を説き、イエスをキリストとして受け入れなかった人々は「盲目的なユダヤ人側」に属していると述べるのです。彼はキリスト教の拒絶を世俗の権威の拒絶と同義とみなし、それが無秩序や混乱を招くと主張します。
さらに、神から与えられた権威を尊重しなかった例としてロシア人にも言及します。ガーレン司教は、反ユダヤ主義的な1935年のニュルンベルク法(Nuremberg Laws)や、1938年の「水晶の夜(Kristallnacht pogrom)」における迫害に対して抗議することはありませんでした。水晶の夜ろは、1938年11月9日から10日にかけて、ナチス政権下のドイツ全土で起きた大規模な反ユダヤ主義暴動のことです。破壊されたユダヤ人商店やユダヤ教会堂の窓ガラスが割れ、道路に飛び散った破片が光り輝いていたためが水晶の夜と呼ばれました。彼は死ぬまで、ユダヤ人を「退廃的」、「拒絶された」、「道を踏み外した」と呼んだり、無政府主義、共産主義、社会主義、自由主義を「ユダヤ的」とレッテルを貼ったりすることが、ナチス政権やその人種差別的な反ユダヤ主義を何らかの形で助長したとは認めませんでした。この立場は、少々理解に苦しむところではあります。
1935年後半には、教会に対する「水面下での戦争(underground war)」に抗議するため、ドイツの司教団による共同司教書簡の発出を強く求めていました。1937年初頭までには、当初はナチス政権との協調を試みていたドイツの教会指導部も、深い幻滅を抱くようになっていきました。3月、教皇ピウス11世は回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ(燃えるような憂慮をもって)』を発布し、ナチス政権が1933年の政教条約に違反していることを指摘します。
さらに「疑念、不和、憎悪、中傷、そしてキリストとその教会に対する隠然たる、あるいは公然たる根本的な敵意」を撒き散らしていると非難するのです。ガーレン司教は、この教皇回勅の草案を作成した5人の委員の一人でありました。ナチスはこれに対し、カトリック教会への攻撃を激化させることで応じていきます。聖職者の大量逮捕や教会系出版社の接収が行われ、さらには修道会会員や司祭に対する広範な虐待の告発や、道徳的非行を問う捏造された裁判が相次いで行われます。1941年、ガーレン司教は対ソ連戦争の開始を肯定的な動きとして歓迎します。彼はヒトラーがポーランドに侵攻した際にも、愛国的な祝福の言葉を捧げてドイツの大義を支持していきます。当時、ガーレン司教はなお民族主義的な心情を抱いていたようです。
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