ガーレン司教の3度の説教は何千部も印刷され、ドイツ全土に流布します。その結果ドイツ各地で抗議運動が起き、「T4作戦」として知られる安楽死計画を覆っていた秘密のベールが剥がされることになります。地元のナチ党大管区指導者は激怒し、ガーレン司教の即時逮捕を要求します。しかし、ヨーゼフ・ゲッベルスや党内の現実路線派は、カトリック教徒の多い地域でドイツ国民の士気を低下させるのを避けるため、戦争が終わるまで待つべきだと判断します。1年後も安楽死計画は続いていくのですが、ナチス政権はより厳重な秘密裏にそれを遂行するようになっていきます。
アメリカの精神科医、ロバート・リフトン(Robert J. Lifton)によれば、「この力強く大衆に訴えかける説教は、直ちに複製されドイツ全土に配布された。それどころか、イギリス空軍の航空機からドイツ軍部隊に向けて投下さえされたのである。『安楽死』反対の世論を形成する上で、ガーレン司教の説教ほど大きな影響を与えた声明は他にないだろう」。ジャーナリストで、ラジオ記者のハワード・スミス(Howard K. Smith) はガーレンを「英雄的」と評し、彼が代表する運動はあまりに広範に及んでいたため、ナチス政府もこの司教を逮捕できなかったと記しています。
イギリスの歴史家でナチズムの研究者イアン・カーショー(Ian Kershaw)は、1941年に行われた政府の安楽死計画に対するガーレンの「公然たる攻撃」を、「ナチスの非人間性と野蛮さに対する痛烈な糾弾」と呼びます。イギリスの作家で歴史学者のントン・ギル(Anton Gill)によれば、「ガーレンはこの恐るべき政策を糾弾することを通じて、ナチス国家の本質に関するより広範な結論を導き出した」と記しています。
これらの説教は、ドイツの抵抗運動に関わる様々な人々に感銘を与えていきます。「リューベックの殉教者たち(Lübeck martyrs)」は、フォン・ガーレンの説教を配布していました。リューベックの殉教者とは、第二次世界大戦中のドイツ・リューベックで、ナチス・ドイツの非人道的な政策や独裁体制を批判して処刑された4人の聖職者たちのことです。また、その説教は、ミュンヘン(München)の大学生による平和主義的な反ナチズム抵抗運動グループ「白バラ(Die Weiße Rose)」を結成したショル兄妹(Scholl) らにも影響を与えたのです。ガーレン司教が1941年に行った説教の一つが、同グループの最初のパンフレットとして用いられたのです。敬虔なルター派信徒であり、ドイツ抵抗運動の中心的指導者の一人であったハンス・オスター(Hans Oster)少将は、かつてガーレン司教について次のように語っています。
「彼は勇気と信念の人だ。その説教に込められた決意たるや!我々の教会すべてにこうした人物が数人、そして国防軍にも少なくとも十数人はいるべきだ。もしそうであれば、ドイツの姿は全く違ったものになっていただろう!」
ガーレン司教は1941年から終戦まで、事実上の軟禁状態に置かれました。ナチスは終戦時に彼を絞首刑に処すつもりであったことを示唆する文書も残されています。 1942年の「テーブル・トーク(Table Talk)」の中で、ヒトラーは次のように語ったといわれます。
「私が公の場で教会問題について沈黙を守っていることは、カトリック教会の狡猾な連中には決して誤解されていない。フォン・ガーレン司教のような人物であれば、戦後、私が最後の一兵に至るまで報復を行うつもりであることを十分に承知しているはずだ」

