Last Updated on 2025年6月16日 by 成田滋
戦時中、ドイツ国内に静かに展開していた反ナチ運動が「白薔薇通信」というチラシに記述されたことを書いてきました。このような不戦や反戦運動に加わった学生らは、「消極的抵抗」と呼んでいました。日本では戦前、戦中にこうした軍国主義批判や国粋主義批判の風潮があったとしても、家族や友人の間でさえ公にされることは厳重に禁止されていました。特に学徒といわれた大学生が、繰り上げ卒業となり、兵役に就いた時、自分達が異常な状況に置かれていることを見つめた手記などが明らかにされたのは1947年頃だといわれます。それが「はるかなる山河に」という東京大学の戦没学生39名の日記・手紙・句・和歌・詩・遺書集です。
「きけ わだつみのこえ」は、「はるかなる山河に」のように東京大学の戦没学生に限られていたという欠点を補うために、広く新聞ラジオを通じて全国の大学高専出身の戦没学生の遺稿を集めて編集されたものです。追い詰められた若い魂が、自然死ではなく、もちろん自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれが「散華」とされるように、訓練され、教育された若い魂の遺稿です。若い生命のある人間として、また夢多い青年として、また十分な理性を備えていた学徒らです。不合理を合理として認め、いやなことを好きなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追い込まれた時に、発した叫びが日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』から聞こえるのです
残忍で暗黒のような国家組織と軍隊組織のなかで生きた青年の痛ましい記録が『きけ わだつみのこえ』です。このような狂気のような言辞を戦前、戦中に弄して若き学徒を煽てあげていた人々が、今や現に平気で平和を享受し、呑気に政争に明け暮れる政治に邁進しています。このような唾棄すべき現代に対する声なき声の訴えが『きけ わだつみのこえ』です。純粋なるが故に為政者や軍人の煽動の犠牲となり、無数の白骨化した学徒が太平洋の島々、遙か洋上の紺碧の彼方に眠っています。
人間が追い詰められると獣や機械になるといわれます。人間らしい感情、人間として磨き上げねばならぬ理性を持っている青年が、かくのごとき状態に無理矢理に置かれて、もはや逃れる出る望みが無くなったとき、獣や機械になる直前に『きけ わだつみのこえ』に見られるようなうめき声や絶叫が聞こえてくるのです。戦争というものは、いかなる戦争といえども必ず人間を追い詰めるものです。相手に銃をつきつけると相手も銃をこちらに突きつけるのです。相手が銃を突きつけると相手に銃をつきつけるのが戦争というものです。
ここに収められた手記や手紙、日記は、普通の条件のもとで書かれたものではありません。戦争下というだけでなく、日本軍隊の徹底した私生活統制が手紙や日記にまで及んで、すべて厳重な検閲のもとに置かれており、自由な表現は原則として行われていませんでした。このような統制は、軍事上の機密を護るということよりも、人身から良心にまで立ち入って拘束し、この制限が全面的に行われていたのです。
将校や幹部候補生になると、家族への手紙などの検閲は幾分緩和されたといわれます。しかし、兵卒の場合には、検閲は全く極端なまでに徹底されたようです。この事実は「こんな手紙を書いたのが二年兵にでも見つかれば、おそらく殺されるでしょう」という兵士の言葉にそれが表れています。それにしてもこうした厳しい検閲を通り抜けて、不自由な文字で家族のもとに届けられた手紙のなかに、どんなに痛切に学生達の人間らしい苦悩や訴えや疑惑や諦めが語られていることでしょうか。
最後の出撃や有罪判決後の処刑を前にして、学徒兵の家族宛の別離の手紙までが、型どおりの国粋的用語で書かれるのが普通でした。真情の吐露は「女々しい」として堅く禁じられていました。密かに書いて外出のさいにポストにいれたり、面会にきた友人にこっそりと持ち帰ってもらったという例もありました。それはほぼ例外であったことが指摘されています。『きけ わだつみのこえ』に収めた手記のうち、自由な文字が書かれているのは、まさにそういう例外的なもので、家族や友人によって密かに保存されたものが後に公開されたのです。
