【捨て石】と武田信玄

Last Updated on 2025年2月26日 by 成田滋

甲斐の国の戦国大名、武田信玄(武田晴信)と囲碁の話題です。織田信長が1571年に比叡山を焼き討ちしたときに、追われた天台座主を甲斐で庇護するほど仏教に理解があったようです。信玄の配下には高坂弾正昌信や真田昌幸といった優れた武将が多かったことも知られています。この二人の武将も信玄とともにかなりの打ち手だったといわれます。武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」にこうした人物やエピソードが登場します。

武田晴信 (Wikipedia から)

 「甲陽軍鑑」は、武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前に作り始められ、武田四天王の一人といわれる高坂昌信が武田家の行く末を危惧し、家来らの口述を書き継いだものといわれます。信玄の残した有名な格言に、「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉があります。信玄は、自分の居城つつじが館があまりに質素で「どうして城を豪華にしないのか?」と聞かれて、「城より優秀な家来の方が大事なのだ」と答えたとか。それにしても、少々出来過ぎのようなエピソードです。甲斐の国は海が無いので産業に乏しく、貧乏で城を築く余裕があまり無かったのかもしれません。

 実際に家来を大事にしていたことが分かるのが、囲碁のエピソードです。信玄は捨て石が苦手だったといわれます。捨て石とは、意識して相手に取らせる石のことです。なぜ石を捨てなかったのか、と問われたとき「自分の家来をそう簡単に切り捨てることはどうしてもできない」と譲らなかったと言います。残されている信玄対局の棋譜によれば、彼の棋力は今でいう四、五段くらいはあったようです。しかし、そこから先は伸び悩みし、「捨て石」に踏み切れなかったからだという解説もあります。

 今も人間的に優しい人はあまり厳しく相手の石を攻められなかったりする傾向があるようです。上達するなら心を鬼にしないといけないのでしょうが、、、、勝ち負けに一喜一憂せず無理に上達を求めず自分のポリシーを貫く信玄のような碁を打つのも一興というものです。

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