心に残る一冊 その28 「獄医立花登手控え」「風雪の檻」

小伝馬町牢は、人生につまずいた者の吹き溜まりです。狡賢い者や正直者もいます。その中に捨蔵という容態が悪い病人がいます。軽い盗みで捕まりもう半年以上も牢に入っています。普通、盗みの程度なら裁きのあとは決まって叩きの刑ぐらいで解き放たれます。しかし、家族や親戚が不明という無宿者の捨蔵は、再犯の可能性が高いという理由で長く勾留されるのです。

余命幾ばくもない捨蔵を「溜」に移した方がよいと獄医立花登は提案します。溜とは養生牢のことで小伝馬牢よりもこぎれいで風通しがよく、住み心地が少しよい所です。囚人も昼夜、煮炊きもできる所です。

捨蔵に登が痛み止めの薬をやると、捨蔵は「ちょっとおねげえがある」というのです。娘と孫を捜して欲しいというのです。
「ずいぶん前に別れて、いまでは行方がわからない、それにいまさら親でございと名乗れる仲ではない。さんざん迷惑をかけてきた。」
「助からない命なら死ぬ前に一度は顔をみてえ。」

登は捨蔵の頼みにほだされて、捨蔵のいう娘と孫を探しだし、その言葉を伝えようとします。

捨蔵がいう娘の名は「おちか」。彼女はかつて種物屋に押し込んで一家三人を殺した犯人を偶然目撃しています。そのため逃走した二人の賊から追われて小さな娘と江戸中を転々としています。散々苦労した結果、登はおちかを探すのですが、その犯人の人相を登が聞き出すと、その男は捨蔵とそっくりなのです。登の調べによって二人の賊の一人が捨蔵だと判明し、もう一人の賊も捕縛するのです。捨蔵に対するじくじたる思いの登ですが、おちかや娘の安堵した表情に充実感も溢れます。

心に残る一冊 その27 「獄医立花登手控え」「春秋の檻」

「獄医立花登手控え」というサブタイトルのつく「春秋の檻」、「風雪の檻」、「愛憎の檻」という藤沢周平の作品を読んでいます。羽後亀田藩の下士に生まれた獄医立花登が難事に挑む時代小説です。羽後とは出羽の別名。亀田藩とは、秋田県南部に位置する日本海に面した由利本荘市にあった藩です。

登は国許の医学校で医学を修め、さらに江戸に赴いて医学を精進すべく、叔父の小牧玄庵の所に居候します。玄庵も浅草で開業する町医者です。酒が好きで酒代を確保するために小伝馬町にある牢屋敷で医者も努めています。医学を志す登は玄庵の腕に失望しながらも、書物を読み玄庵の代診をしながら研鑽していきます。

医師を志しながら、獄舎でつながれる人々の様々な事情と向き合います。起倒流という柔術で危険な人間をやり込めるのです。島送りの流人船を待つ囚人から、ある女に渡るべき十両をやくざから取り戻し、渡して欲しいと依頼されます。渡した十両を取り返そうとするやくざの匕首を躱し当身を打ち込んで倒します。

居候の登の世話をする叔母は、登に酒飲みの叔父の愚痴をいったり、素行の芳しくない娘のことで相談をかけたりして、時に登を身のうちの者のような言い方でもたれてきたりします。日頃はいろいろな用事を言いつける口うるさく杓子定規な女性です。

「登さんも江戸に慣れて、そろそろこの家に住むのがいやになりましたか」というように平気で嫌みを言ったりします。

小伝馬町の牢獄には三人の医師がいて、漢方でいう本道である内科医が二人、外科医が一人となっています。登は内科医という設定となっています。人間として医師として成長を遂げていくさまが描かれています。

叔父の代診で牢屋敷に通うなかで、登は牢獄につながれる人々が、なぜ罪を着せられたか、罪を犯したのかを問うのです。彼らの苦悩に共感しながら、残された人生を懸命に生きようとする姿に寄り添おうとします。

心に残る一冊 その26 Intermission  広辞苑改訂と岩波書店

「広辞苑」の出版元は岩波書店です。岩波書店の本にはいろいろとお世話になりました。大学の教科書に始まり、関連の専門書、そして新書や文庫といった按配です。岩波新書の刊行は1938年というのですから凄いの一語に尽きます。「方法序説」や「広島ノート」、その他「風土」といった本が手許にあります。北海道大学時代は、少々気取って「世界」や「思想」を読んだものです。1960年代ではこうした雑誌を読まないと時代に遅れるという雰囲気がありました。岩波のものであればどれも信頼がおける、という思い込みやこだわりが私にはあります。

創業者の岩波茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身といわれます。「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田舎暮らしを好んだとあります。岩波の刊行物にあるエンブレムにはミレーの種を蒔く人が描かれています。ミレーを引用したのはそんなところにあったのかもしれません。

岩波書店で忘れてはならないのは「図書」という冊子です。「読書家の雑誌」といわれるほど、読書の新しい愉しみを発見できるところです。「古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、旅のときめき体験、味あふれるエッセイの数々、人生への思索などを綴る」とあります。知的好奇心あふれる読者が長く手にしている小冊子です。

岩波書店から出版されるにはどうしたよいか、ということです。恐らく原稿を幾重にも審査されるのでしょう。科学研究費補助金の審査よりも厳しいのではないかと察します。岩波から出版するにはどうしたらよいか、どなたか良い知恵を教えてくださいませんか。

心に残る一冊 その25 Intermission 広辞苑改訂と「はんなり」

このシリーズでちょっと休憩します。先日「10年振りに広辞苑改訂」という記事がありました。毎日のように図書館通いをして大分経ちます。そしてブログの素稿を書くために、きまって新村出氏編集の「広辞苑」を書架から取り出します。調べたい用語や単語を書き写すとすぐ書架に戻します。広辞苑の利用者が多いのです。漢字を調べるときは白川静氏編集の「字通」を借ります。

図書館にある広辞苑は2007年出版の第六版。定価は書いてありません。私が家で使う広辞苑は昭和44年出版の第二版です。定価は3,200円で出版年は西暦を使っていません。初版も昭和30年とあります。

辞書を手にして知りたいことは、その語がどのような意味があるかということです。さらに、語がどのように意味を変えたかを調べるのに辞書は欠かせません。古語や現代語を包括し、学術その他広くゆきわたる語いや事項を含むいわば小百科事典です。語いの多義性とか多様性、実用性を教えてくれるのも辞書です。広辞苑は用例や典拠を豊富に掲げています。語源や語法をみることによって本義や派生語を知ることも望外の楽しみとなります。こうして知的好奇心をかきたててくれます。

広辞苑では、地域語や地域の事情なども選ばれています。たとえば「はんなり」。落ち着いた華やかさを持つさま、上品に明るいさま、とあります。「はんなりとした色合い」というように使うのでしょうか。兼好法師が「今ここで見る顔はまた、はんなりとなつかしう、かわいらしう、恥ずかしう」という具合に引用されています。「花なり」が語源とか。京言葉の代表といわれているようですが、道産子のわたしには「はんなり」という言葉を調べて納得し、なにか京の出になったような気分になります。

同じく岩波書店から出ている「国語辞典」も持っています。こちらは携帯用で、さすがに「はんなり」はありません。固有名詞や外来語を掲載しないのが編集の方針とあります。

心に残る一冊 その24 「たそがれ清兵衛」

「蝉しぐれ」と並ぶ私の愛読書の一冊が「たそがれ清兵衛」です。この小説を読んだのは50代ですが、いつも手元に置いておきたい作品です。庶民や下級武士の悲哀を描いた時代小説にはどこか共感するものがあります。大衆小説の本筋は娯楽色が豊かなこと、という言い方がされますが、私には社会の底辺にいる人々の息づかいを豊かに描く藤沢周平の筆遣いに惹きつけられます。

主人公は下級武士の井口清兵衛。「たそがれ清兵衛」と呼ばれています。病弱な妻の世話や看病のために、同僚との付き合いを断わり、退城の合図とともに黄昏れ時に帰宅するのです。そのため「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれています。

海坂藩の藩主が若くして没し、ほどなく後継者争いが起こります。世継ぎが決まり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まります。粛清されるべき人物の中に一刀流の使い手、余吾善右衛がいました。余吾は切腹を命じられながらもそれを拒絶し、討手の服部某を斬殺し自分の屋敷にたてこもります。海坂藩は清兵衛に新たな討手として命じます。交友があった余吾善右衛に清兵衛は自首をすすめます。

壮絶な果たし合いが終わり清兵衛は、傷だらけで自宅に戻ります。清兵衛を待っていたのは2人の娘と朋江という女性です。清兵衛は幼なじみの朋江を思い続けていたのです。やがて清兵衛は朋江を妻に迎えます。

明治維新とともに勃発した戊辰戦争で賊軍となった海坂藩は、圧倒的な官軍と戦うことになります。清兵衛は官軍の銃弾に倒れます。時代に翻弄される人々の一人にたそがれ清兵衛をみるのです。

心に残る一冊 その23 「三屋清左衛門残日録」 醜女

この時代小説を読んでいますと、なにか自分に思い当たることが描かれていて実に愉快な気分になります。

「さぞのんびり出来るだろうと思っていたのだ。たしかにのんびり出来るが、やることななにもないというのも奇妙なものでな。しばらくはとまどう」 清左衛門はかつての部下であった佐伯熊太にいいます。

「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持ちが委縮してくる。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心が戻るまでしばらくかかった」

熊太は「ひと一人の命がかかっている話」を清左衛門を持ちかけ助けを求めます。おうめという女のことです。彼女は城下の貸家の娘です。行儀見習いのため城の奥御殿に奉公にはいります。あるとき藩主が何の気紛れを起こし、醜女と呼ばれていたおうめに一夜の伽をいいつけるのです。その一夜の出来事のあと、身籠ったらしいという噂で、おうめには暇が出され実家に戻り、藩から三人扶持をもらう身分となります。三人扶持とは3人の家来や奉公人を抱えることができる切米のことです。

あまり公にできないことなので、ほとほと困っている熊太は、手を貸せと清左衛門に頼みます。

「しかし、わしはもやは隠居の身でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならないだろう」
「そのことならさっき、城で又四郎どのに会った話した」 熊太ははぬかりなく言います。又四郎は清左衛門が家督を譲った息子です。

「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」

身籠ったのは、相手がわからぬ父なし子というので、殿の威信を損なわないように、おうめを密かに処分してしまえという山根備中という組頭がいうのです。山根は権威主義に忠実な家風で育ったため、言うだけではなく、実際におうめを抹殺しかねない、と清左衛門は考えおうめを助けようと人肌脱ぐのです。

心に残る一冊 その22 「三屋清左衛門残日録」 微変化

一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。

「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。

藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。

心に残る一冊 その21 「三屋清左衛門残日録」 寂寥感

「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。

勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。

藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。

仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。

こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。

心に残る一冊 その20 「木綿触れ」

藤沢周平の小説には、下級武士の無念や悲劇、農民や職人のつましくも助け合い生きる姿を描いた作品が目だちます。彼の故郷は山形県鶴岡市です。東北の小京都といわれる静かなたたずまいの城下町です。山といえば、羽黒山や月山、湯殿山、金峯山などが周りにあります。そして川です。内川、青龍寺川、赤川が作品に登場します。山と川、そして橋が舞台となっています。

子を失って悲嘆にくれる妻を励まそうとする下級武士、結城友助。代官手代の上司、中台八十郎は代官所で金を吸い上げ、倹約令がでているのに絹の着物など、ぜいたくな身なりをし妾も囲っています。下士も庶民も絹を着てはならない時代です。苦しい生活の中から妻はなえに中台のために差し操って絹の着物を作らせた親切が仇となります。そして中台に妻を弄ばれるのです。はなえはそれが元で自殺を遂げるのです。はなえが身を投げたのが川です。

友助は代官手代中台八十郎の屋敷に出掛けます。

友助 「言うことをきかなければ、お上に訴える。そうなれば自分だけでなく、亭主も結城家の家名も危ういとでも言いましたか?それでは、あの臆病な家内がどう手向かえるものでもない。死んだ者同然に、言うことをきいたはずです」
中台 「それでいいではないか、結城、」
中台 「事実、そのために結城の家にも、おぬしにも、なんのお咎めもないではないか」
友助 「しかしそのために家内は死にましたぞ」
中台 「そんなことは、わしは知らん。女が勝手に死んだのだ」
友助 「あなたは、人間の屑だ」

友助は抜き打ちに中台の肩を切り、はなえの仇を討つのです。そして正座して腹をくつろげます。庭に水音が響き、家の中はなお静まりかえっています。腹を切るのを妨げる者は誰もいません。

心に残る一冊 その19 「蝉しぐれ」 その五 お福との別れ

「蝉しぐれ」の最終稿です。文四郎は、お福と御子を救った勲により二十石の加増となります。さらに一緒に闘った布施鶴之助の召し抱えを横山家老に願いでて受理されます。家老家を出ると文四郎は、追放された里村の刺客に襲われます。文四郎は、秘剣村雨の極意を使いかろうじて刺客を仕留めるのです。

20数年後、文四郎は郡奉行として出世します。そして父親のかつての名、助左衛門をもらい二人の父親になります。江戸では側室として仕えたお福の前藩主が亡くなり、その一周忌を前にしてお福は白蓮院の尼になることを決め、海坂藩に戻ってきます。そして、その前に助左衛門に会いたいと手紙を送ってきます。

二人はしみじみと語らい、感極まって手をとり合い抱き合うのです。助左衛門はお福の唇を求めると、お福それにも激しく応じてきます。しばらくしてそっと助左衛門の身体を押しのけ、声をしのんで泣くお福です。別れ際にお福は言います。

「ありがとう文四郎さん、これで思い残すことはありません」

権力争いの渦中にあって、主人公文四郎の凜としてさっそうたる生き方と清朗な行動、親友との一途な剣の修行と友情、市井の人々や農民への暖かい眼差しと寄り添う生き方があります。そこには抒情が漂います。