囲碁にまつわる言葉 その22 【長考】

碁の大会では時計を使い、大会を円滑に進めようとします。時計のお陰で高段者同士でも一局一時間くらいで終わります。長考するのは次のような状態の時です。
1. 局面で次の一手がわからない時
2. 次の一手でそのあとの展開が全く異なるため迷っている時
3. 有利になりそうになり、読み切ろうとしている時
4. 不利を意識し対応に苦慮している時

1の場合は、良い手を打つのはあまり期待できません。2~4も同様で、着手そのものは平凡なことになりがちです。素晴らしい手は、割合短時間で瞬間的に閃く傾向にあります。棋士は、素晴らしい手を見つけようとして長考するとはいえないようです。

—–【長考】——–
最善手を模索するためにできるだけ多くの選択肢を考慮する様です。「長考に耽る」「長考に沈む」などの姿です。思考型のゲームにおいては、ゲームの目的に適った行為です。トランプや麻雀ではこのようなことはありません。「長考」とは「読み」とも呼ばれ、何手や何十手先の着手を考える行為です。どのような選択肢によって、どのような結果になるかを考える行為です。名人による長考がときに伝説となることがあります。

他方、「長考に耽る」のは、事前に相手の出方を予想できていなかったためともいえる姿ともいえます。「長考」は実際には、迷いに費やす時間のほうが圧倒的に多いのです。この場合は、「長考」は窮余の策に過ぎず、けっして胸を張れる行為ではありません。慣用句に「下手の考え、休むに似たり」と揶揄する言い方もあります。時間を浪費するだけで、なんの効果もないく、相手が考え続けることあざける言い方です。

囲碁にまつわる言葉 その15 【大局観】

碁老連だよりには、「ボケ防止のための囲碁大会」のための八王子全市の町会、団地自治会、及び老人会などに回覧用チラシ約13,000枚を配付して啓発運動を展開したとあります。特に級位者の参加者が非常に少なかったので、その対策を考えていたようです。本来なら、囲碁人口としては一番多いはずなのは級位者の人たちです。しかし、級位者は碁を打つ機会がなかったようです。その理由を、会長の熊沢正一氏は次ぎのように述べています。
1 現在、町会や団地内の囲碁部では参加者が有段者中心となっており、このクラスになると敬遠されるようだ
2 町会や団地内で碁を打っていても、若い人たちはどんどん昇格するが老人は取り残されてしまいがちなので、厭になってやめてしまう者が多い
3 以前は各地で老人同好者が集まり、碁会を開いていたようだが、最近ではゲートボールに走る者が多い
4 勤務先の職場で碁を打っていた人たちは、退職後、教授値では碁の相手がみつからない
5 碁会所では、級位者は相手に選ばれないので、気落ちしてしまい永続しない

以上のような分析は、今の八王子囲碁連盟の現状にもあてはまります。

大局観

—–【大局観】——– 
囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力が大局観です。部分的なことに囚われずに全局的な視点から判断するということです。囲碁は他のゲームに比べて大局観で次の一手を決める割合が高いのです。常に全体を見て総合的に判断できる人が囲碁の強い人といわれます。

大局観を育てるためには、5つの要諦があるといわれます。1つは、方針となる理念・信条を確認すること、2つには、方向を示す具体的目標であるビジョンを描くこと、3つには、ビジョン達成の行く手を阻む変化を適確に予見し、精査すること、4つには、目標達成のために必要な戦略を練り上げていくこと、そして5つには、状況によってシナリオからはずれた場合、何らかの対応策を用意すること、といわれます。

大局観を育てるには、「鳥の目」、「魚の目」、「虫の目」といわれる3つの目をも持つことだともいわれます。鳥の目とは、高所から広い範囲を見渡すこと、すなわち「鳥瞰」することです。マクロな視点ともいわれます。次ぎに魚の目というのは、物事の流れや変化といった「動き」を捉える視点のことです。虫の目とは、細部に注目するミクロな視点でみる、ということです。物事の全体を見るという用語に「俯瞰する」とか「俯瞰像」がありあます。大局観と同義です。英語で大局観は「perspective、strategy 、tactics」ということになります。

囲碁にまつわる言葉 その13 【タケフ】

大会開催を案内すると、次のような質問が寄せられます。それに対して碁老連会長だった熊崎正一氏は次のように答えています。

質問1:「碁会所では初段(免状所持)で打っているが、同好会では二段で加入していおります。大会申し込みは初段でよろしいでしょうか」
熊崎会長:会員ですから当然二段で参加して頂きます。初段での参加は認められません。
質問2「現在碁会所では2級でうっているが、会社の囲碁部では日本棋院より初段の免状を頂戴しております。大会ではどちらで参加したらよいでしょうか。」
熊崎会長:どちらでも結構です。ご自分の判断で決めて下さい。
熊崎会長:以上のような照会は、同好会に加入された場合、数多く見られる現象ですが、老人の集まりですから「勝負にこだわらないで、碁を楽しむことに重点をおいてください」と申し上げております。
熊崎会長:碁老連関係の会員は、町の囲碁界より段位が甘いようです。それは、若い人たちと張り合っても所詮無理な話で,老人は老人同士、気楽にやりましょうという環境がそうさせているのでしょう。

—–【タケフ】——–
石を分断する手筋に「出切り」があります。相手の石を連結させない手です。それを防ぐのが【タケフ】です。漢字では「竹節」、中国では双関となります。連結した二子が平行に並んでいる形で、確実な連絡形として用いられます。出切りを防ぐのです。形が竹の節に似ていることから「竹節」となりました。

囲碁にまつわる言葉 その7 【一目置く】

平成3年の碁老連ニュースには、日本棋院が発行していた「囲碁新聞」の「ボケ防止と囲碁」という記事を掲載し始めます。もちろん棋院より記事の転載許可を得ています。東大医学部教授の折茂肇氏と石倉昇七段の共同執筆です。脳の老化の仕組みとか、病的な老化や生理的な老化、といったことが解説されています。囲碁の効用のなかで、「碁を打っているとぼけない」というのが決め台詞のようです。

—–【一目置く】——–

一目置くライオン


「大辞林」によれば、【一目置く】とは、「自分より優れていることを認めて敬意を払う、一歩譲る」とあります。一目置くは囲碁から生まれた言葉で、一目は一個の碁石のことです。囲碁ではハンディとして、弱い方が先に石を一目置いてから対局を始めます。 通常の対局では「弱い方が先に石を置く」のです。なぜかと言いますと、盤上ゲームは基本的に先手の方が有利だからです。そこから、【一目置く】は、相手の実力を認め敬意を払う意味となります。

「一目置く」の強調した言い方には、「一目も二目も置く」という表現があります。注意すべきことというか、意外なことは「一目置く」は自分より目上の人に対しては使わないということです。「一目置く」には「相手を評価する」という意味も含まれているので、基本は目上の人が目下の人に対して使う言葉となります。世間での「一目置く」の使い方は逆のような感じがします。

囲碁にまつわる言葉 その4【玄人と素人】

八碁連の会長は長年にわたり1年任期が続きました。それだけ会長になれる沢山の人材がいたのか、はたまた2年、3年の任期では弊害が起こるのではないかという懸念があったからでしょうか。しかし、1年任期では相応の仕事ができるのかという疑問が生まれます。私の短い経験からしますと1年任期では中期的な仕事はできないという結論です。
 
政界をみますと、菅総理大臣も1年で退陣を表明しました。以前、宇野宗佑、羽田孜という首相はたったの2か月で辞めました。細川護熙も9か月という短命の首相でした。権力闘争や連合や連立といった内部における意見の対立によって、国民が期待する成果を挙げることができませんでした。

—–【玄人と素人】——–

素人と玄人の標識


玄人(くろうと)・素人(しろうと) という言葉です。黒石と白石から生まれた言葉が玄人であり素人です。「黒うと」「白うと」という表記はありません。でもおかしいな、という疑問が生まれます。対局するとき、碁の強い人が白を持ち、弱い人が黒を持ちます。もって平安時代では強い人が黒を持って対局をしていたといわれます。玄人とは、その道に熟達した人、特別の能力を究めた人です。そのために大いなる「苦労をした人」かもしれません。語呂合わせの印象もありますが、、、、

「玄」という漢字には〈黒い〉とか 〈微妙で深遠な理〉 という意味があります。老荘の道徳における微妙な道ともいわれます。他方「素」 の漢字には,〈色をつけてない〉 〈加工や装飾していない〉 という意味があります。「素のまま」とか「素っぴん」という用語がそれを表しています。

懐かしのキネマ その117 【日曜洋画劇場と淀川長治】

そろそろ「懐かしのキネマ」のネタも切れようとしています。どうして自分は映画が好きになったのか考えています。振り返れば、それなりに理由が浮かんできます。そしてその原因や背景、人との出会いなども心に浮かんできます。それを記すことにします。

小さい時、北海道の美幌に進駐軍がやってきました。チューインガムやチョコレートをねだりました。それは初めての「外人」との出会いでした。アメリカの軍人です。親父が美幌駅で働いていたとき、将校が宿泊する列車が停まっていて、ときどき将校からレーション(ration)と呼ばれる食料などの配給品が入った缶詰を貰ってきました。アメリカ軍の野戦食です。甘い物が少ない時代でしたのでその美味しいことといったらありませんでした。

父の転勤で美幌から名寄に移りました。名寄中学校では始めて英語を習いました。今の子どものように幼稚園から英語を勉強するなんて考えられない頃です。幸い私は良い先生に出会いました。この先生の名前は藤田??。髭と眉が濃く声はバリトンでした。藤田先生の発音は、まるで真っ白の紙に滴が垂れるように、私の耳には実に新鮮でズンズンと伝わってきました。使った教科書は「Jack and Betty」。不思議と文章がスラスラと頭に入りました。

淀川長治

父が転勤で稚内駅勤務となったときです。市の突端ノシャップ岬に米軍の電波基地がありました。一度そこに稚内中学の英語の先生に連れられて基地に入りました。そこで出された黒い飲み物の味を覚えています。コカコーラでした。そこで出会った軍人さんとペンパル(pen pal)となりました。この方は退役してからウィスコンシン州のオコノモウォック(Oconomowoc)という街にあったカトリックの神学校を修了し神父となります。彼はその後、横浜の教会で宣教のために働きます。私がこの神父の活動を知ったのは2005年でした。今もFacebookでやりとりしています。

稚内にいたとき始めて洋画をみました。父親に連れられて観たのが「戦場に架ける橋」です。実は私の父親も大の洋画好きでした。稚内高校で合唱団に入り、NHK唱歌ラジオコンクールの予選に出場するために旭川に行ったとき、スカラ座という映画館で友達と観たのが「八十日間世界一周」という作品です。なぜか、その映画で執事役で出演したカンチンフラス(Cantinfla) というメキシコ人喜劇俳優が今も記憶に残っています。

外国に憧れるようになったきっかけの一つが、中学生のときヨーロッパの地理を学んだことです。イギリスやフランス、ドイツの白地図をノートに書く時間がありました。フランス、ブルターニュ半島(Bretagne)の形を今も覚えています。第二次世界大戦でのD-デイ(D-Day)のとき連合国軍の上陸拠点に近いところです。地理の勉強は世界の地図や地形、首都などを覚えるのにとても役立つものです。普仏戦争での敗戦によってプロイセン(Prussia)の領土となったアルザス(Alsace)の学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」という短編小説があります。アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の作品で、これを読んでフランスとドイツの歴史を学んだことも懐かしい思い出です。いつかはこうした国を訪ねたいという願望をかき立ててくれたものです。

水野晴朗

映画といえばテレビの影響を忘れることができません。『日曜洋画劇場』、『ゴールデン洋画劇場』、『金曜ロードショー』などの番組です。『日曜洋画劇場』の冒頭では淀川長治が「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、解説の締め括りに「さよなら、さよなら、さよなら」で終わるあれです。『水曜ロードショー』や『金曜ロードショー』番組では、水野晴朗が「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」という決め台詞がありました。『シェーン』(Shane)を観たのはこの番組のお陰です。

最近、ビデオ・オン・デマンドで戦前や戦後の名作映画を観ることができるようになりました。Youtubeでも広告なしで観ることができます。ただ、近年は昔作られたような名作に接する機会がないような気がします。莫大な制作費や興行上の必要性から,ほかの芸術に比較して産業としての性格が著しく強いのが映画です。テレビに押され固定の映画劇場が少なくなり、映画産業が下降しているのは時代の流れといえるようです。それでも「アナと雪の女王」や「鬼滅の刃」の記録的なヒットは意外でした。

懐かしのキネマ インターミッション 映画と英語との出会い

その2 「The Sound of Music」

父は国鉄に勤めていました。そのため転勤は2年毎にあります。名寄の次は、最北端の稚内への移動です。稚内に米軍のレーダー基地があってそこに米兵が駐屯していました。英語の先生に連れられて始めて基地に入りました。そこでやったのはバラックのペンキ塗りのアルバイトです。それが終わると、飲み物が振る舞われました。得体のしれない黒い色のおかしな味をした液体です。今思えば、コカコーラでした。米兵は中学校の体育館やグランドでバスケットや野球の練習をしていました。なんと背の高い人種なんだろう、と思いました。稚内ではもう一つの出来事があります。始めて「洋画」を観たのです。【戦場に架ける橋】というのです。それからは親に隠れての「洋画浸り」の「不良」となりました。

The Trapp Family

時代は経て1964年の頃の札幌です。洋画好きな私に忘れられない思い出があります。【The Sound of Music】を名寄中学校で一緒だった女性と札幌劇場で観たときです。なるべく字幕を見ず、台詞に神経を集中させました。その頃、駅前通りには路面電車が走っていていました。苗穂方面に向かう電車の停留所前にパーラーIshidayaがありました。映画の興奮を冷ますためにIshidayaに入り、しばらくしてから彼女を駅まで見送りました。

懐かしのキネマ その34 歌手で俳優の共演

1959年に製作された西部劇に【リオ・ブラボー】(Rio Bravo)があります。メキシコとの国境に近いテキサス(Texas)の町で保安官のチャンス(Chance)(ジョン・ウェイン: John Wayne)は、殺人犯の身柄を確保します。このあたりの勢力家で殺人犯の兄が、保安官に弟の身柄を移動させないよう部下に命じて駅馬車の車輪を壊し街を封鎖します。チャンスは連邦保安官が来るまで、わずかな味方とともに殺人犯一味と戦うことになります。

チャンスの部下とは、以前は早撃ちながら、アルコール依存症の保安官補デュード(Dudo)、片脚が不自由で毒舌な年寄りの牢屋番スタンピー(Stumpy)、幌馬車の護衛としてやってきた早撃ちの若者コロラド(Colorado) です。コロラドは狙撃された隊長の仇討ちでチャンスに加勢するのです。女賭博師で踊り子のフェザーズ(Feathers)はやがてチャンスの正義感にほだされて恋心を抱いていきます。リオ・ブラボー

【リオ・ブラボー】に二人の歌手が出演しています。ディーン・マーティン(Dean Martin)とリッキー・ネルソン(Ricky Nelson) です。マーティンは人気絶大な歌手、ネルソンは、ロックンロール歌手でした。保安官事務所で連邦保安官の到着を待ちながら、二人で「ライフルと愛馬」(My Rifle, My Pony and Me) を歌うシーンがあります。これは替え歌ではなく、正真正銘の二人の歌声です。さらに孤立した保安官事務所に流れてくるのが、敵が一晩中トランペットで流す「皆殺しの歌」(DE GUELLO)です。この2曲を作ったのはディミトリ・ティオムキン (Dimitri Tiomkin) です。ロシアのサンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory) で学び、アメリカに帰化した後、数々の映画主題歌を作曲していきます。「真昼の決闘」(High Noon)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the O.K. Corral)、「アラモ」(The Alamo)、「ローハイド」(Rawhide)、ジャイアンツ」(Giants)などクラシック音楽に基づいた正統的な曲で知られています。

アメリカの文化 その7 スクールバス

アメリカの道路は右側通行。欧米各国やお隣韓国もそうです。琉球も本土復帰前は右側通行でした。英国は日本と同じ左側通行です。日本の運転免許証でなぜかカリフォルニア州やハワイ州、グアム、そしてドイツとスイスでも運転できます。どうしてなのかまだ分かりません。

アメリカでは信号が赤であっても、交差点で一番右側の車線を走っている場合は、左側から車が来なく、歩行者がいないときは右折することができます。右折禁止になっていない交差点で、止まったままになっているとクラクションを鳴らされます。日本はその点、厳格に「赤は停まる、青で進む」という精神が徹底していますね。

踏切がある道路では、トラックやバスなどの大型車を除いて、踏切を横断する際の一時停止は不要です。踏切の手前で一時停止してしまうと追突事故の恐れがあるため、踏切を通過する際は減速せずにそのまま通過するのです。線路といっても貨物車や汽車は一時間に一本通るかどうかです。一時停止は無意味なのです。

本題のスクールバスの話題です。スクールバスは全州で黄色で統一されています。このバスが停車してSTOPという標識とランプが点灯している場合、STOPのランプが消えるまで後続車も必ず停車しなければなりません。片側二車線でも停まるのです。このとき対向車も停まらなければなりません。スクールバスを追い抜くことは重大な違反になります。児童生徒の飛び出し防止のためです。スクールバスは追突や事故から子ども防ぐために、安全基準に基づいた頑丈な車体となっています。

スクールバスは、1886年頃スクール馬車が作られたことに始まるといわれます。国が広大なので、このバスは都会であろうと、ど田舎であろうと走っています。スクールバスは授業開始の前、授業終了後と部活が終わる時間の3回走ります。社会見学や遠足などにもこのルバスが使われます。スクールバスを運営する会社は全米でいくつかあります。

アメリカの文化 その5 セイント・パトリックス・デイ

アメリカの代表的な祭りの一つにセイント・パトリックス・デイ(St. Patrick’s Day)があります。毎年3月17日となっています。ニューヨーク(New York) やボストン(Boston)、ウィスコンシンなど、アイルランド系移民の多い地域や都市で盛大に祝われます。ウィスコンシン州のニューロンドン(New London)という小さな街は、アイリッシュ系が多く、この期間中だけ町名が「ニューダブリン」(New Dublin)に変更されるほどの思い入れです。人口はたったの人口7,300人です。ダブリンはアイルランドの首都ですね。人口は139万人です。

セイント・パトリックス・デイには、いたるところで三つ葉のクローバーのデザインを目にします。これは「シャムロック」(shamrock) と呼ばれ、アイルランドの国花となっています。聖パトリックという伝道師が、がこのシャムロックをエンブレムとして用いて三位一体(Trinity)を説き、キリスト教を広めたと言われています。三位一体とは、父なる神c(God)、その子イエス(Jesus) 、そして精霊(Holy Spirit) のことです。

セイント・パトリックス・デイで有名なのは、ハウスの噴水が真緑になるのです。シカゴ川の水も真緑になります。この日のお祝いはただ事でないことがわかります。もう一つの伝統は、毎年アイルランドの首相からアメリカ大統領にシャムロックが贈られることです。実に興味あることです。ユーモアすら感じます。

アメリカでは、セイント・パトリックス・デイに食べるものといえば、コーンビーフ( Corned beef)とキャベツの付け合わせです。本場のアイルランドでは、「シェファーズ・パイ」(Shepherd’s Pie)です。羊の肉を使います。シェパードとは羊飼いのことです。それに「ラムシチュー」(Lamb stew)で「 Irish stew」とも呼ばれるようです。私はいただいたことがありません。なぜ「コーンビーフとキャベツ」がセント・パトリックス・デイに食べられるものという通説が広まったのでしょうかね?手ごろに用意できる食べ物だからでしょう。緑色のビールが食卓に並ぶのかもしれません。