心に残る名曲 その三十五  ゴスペル音楽 「Oh Happy Day」 「Amazing Grace」 「Stand by Me」

ゴスペル音楽の起源は、キリスト教の誕生に遡ることができます。その音楽の創造、意義、そして定義は文化や社会の状況によって変容してきました。ゴスペル音楽は審美的な好みや宗教的な行事、そして演奏や出版に関わる興行から生まれてきました。ゴスペル音楽は通常は、ボーカルによる合唱を強調しキリスト教の歌詞があてられて発展してきました。

ゴスペル音楽の発展は17世紀に遡ることができます。黒人の歌いの伝統から生まれます。讃美歌や聖歌はしばしば先導と応唱との繰り返しが特徴です。リズムをとるきは、手を叩いたり足で床をタップして調子を求めます。たいていの場合、歌はアカペラで歌われました。

「ゴスペルソング」が最初に世の中に広まったのは1874年のことといわれます。もともとのゴスペルソングは、ルート(George F. Root)、ブリス(Philip Bliss)、ガブリエル(Charles H. Gabriel)、ドアン(William Howard Doane)、そしてクロスビー(Fanny Crosby)といった人々によって作曲されます。

やがてゴスペル音楽の出版社が各地にできます。1920年代にラジオが普及するとゴスペル音楽は急激に愛好家を増やします。第二次大戦後ゴスペル音楽は大劇場で歌われるようになり、コンサートも洗練されていきます。

ゴスペル音楽は多種多様なものがあります。ゴスペルブルース(Gospel Bruce)も生まれてきます。ゴスペル音楽がブルース調となりギターと福音的な歌詞の組み合わせとなります。南部のゴスペルは男性によって歌われ、テノール二人、バリトン、バスのカルテットで演奏されます。カントリーゴスペル音楽といわれるクリスチャンカントリー音楽は、もともとカントリーミュージックの感覚を伴ったゴスペル音楽から生まれてもので、1960年代に大ヒットをします。

ブルーグラス・ゴスペル音楽(Bluegrass gospel music)のことです。アメリカのアパラチア山脈地帯(Appalachian Mountains)で歌われた音楽を基にして生まれたジャンルです。ケルト・ゴスペル音楽(Celtic gospel music)もあります。ケルト文化の要素を濃厚に反映する音楽でアイルランドで非常に人気があります。「Amazing Grace」は世界中で歌われるケルトの音楽です。英国のブラックゴスペル音楽(British black gospel) も有名です。 散らされたアフリカの人々(diaspora)から生まれた音楽です。先日の英国ローヤルウエディングで歌われた「Stand by Me」はその代表といえましょう。

心に残る名曲 その三十四 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その2 ゴスペルソング

この歌は奴隷であった人々が自由を渇望して、約束の地、カナン(Canaan)にやってきたイスラエル人と重ね合わせて歌う内容となっています。

黒人霊歌の題材は主として旧約聖書からとられ、哀愁を帯びたものが多いといわれます。リズムは欧米の民謡と異なり、シンコペーション(syncopation)が多いのが特徴です。シンコペーションとは、拍節の強拍と弱拍のパターンを変えてリズムに変化を与える手法です。民俗音楽の研究から、アメリカの黒人は、彼らの音楽に対する嗜好を新大陸に移ってから得た宗教的な素材と結びつけていった、というのが一般的といわれます
旋律自体の構成は比較的短く、一つか二つの音節の単純な繰り返しが多いのですが、あまり長いものではありません。この曲もそのような構成となっています。

奴隷解放後は黒人の意識が変化するにつれ、次第にスピリチュアルは影がうすくなります。スピリチュアルは南部の保守的な教会に残るのですが、都市の会衆の間では次第に廃れ、それに代わって黒人の新しい意識を反映したゴスペルソング(Gospel Songs)が優勢となります。

心に残る名曲 その三十三 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その一 ヨシュア

この曲もまた19世紀アメリカで生まれた伝統的なスピリチュアルソングです。作曲したのは奴隷の人々だったと云われています。歌の下敷きになっているのは旧約聖書のヨシュア記(Book of Joshua)です。

エジプト脱出(Exodus)のあと、モーゼ(Moses)とその一行は、「乳と蜜の流れる地」(Land flowing with milk and honey), カナン(Cannan)を目指します。しかし、その旅は難航をきわめ、イスラエルの民は40年間荒野を彷徨います。(Joshua 6:15-21)

モーゼの後継者となったヨシュア(Joshua)はさらにカナンを目指します。難関はヨルダン川を渡ることでした。エリコ(Jericho)という街の近くまでやってきます。エリコは当時、世界で最も古い街の一つといわれていました。幸い水のない河床を渡り城壁に囲まれたエリコを望みます。神がエリコに指示した占領方法は奇妙なものでした。イスラエルの兵士全員がエリコの城壁の周りを七周するように命じられたことです。エリコらは指示に従うと城壁は崩れるのです。

多神教の国エジプトでは奴隷の身分であり、今は同じく多神教のカナンに定住しようとするイスラエルの民にとって偶像礼拝は強い魅力だったようです。主なる神に加えて他の神々を崇拝していた人々と大勢いました。ですがヨシュアは民の前で「わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言するのです。(Joshua 24:15)

エリコを探るためにヨシュアは二人の斥候をだします。街の衛兵がやってきたとき、ラハブ(Rahab)という娼婦と家族は斥候を亜麻の束の中に入れてかくまいます。やがてヨシュアはラハブと結婚し、エレミヤ(Jeremiah)、デボラ(Deborah)などの有名な預言者の先祖となります。

この唄の歌詞は次のようなものです。

They tell me, great God that Joshua’s spear
Was well nigh twelve feet long
And upon his hip was a double edged sword
And his mouth was a gospel horn
Yet bold and brave he stood
Salvation in his hand
Go blow them ram horns Joshua cried
‘Cause the devil can’t do you no harm

イスラエルの民は云う、ヨシュアは長い槍を構え
腰には二本の刀を携え、その口からは福音の音が響く
勇猛果敢に立ち向かい、神の救いはヨシュアの手にある
さあ、羊の角笛を吹きならせ
ヨシュアは叫ぶ 「悪魔は民に危害を加えることはできない」

心に残る名曲 その三十二「Swing Low, Sweet Chariot」

このスピリッチュアルは、テネシー州(Tennessee)ナッシュビル(Nashville)のフィスク大学(Fisk University)で1870年代に活動していたアフリカ系アメリカ人グループ「ジュビリー・シンガーズ(Jubilee Singers)」によってアメリカ各地に広められた霊歌です。「Jubilee 」とは祝祭とか記念祭という意味です。

アメリカ南北戦争(Civil War)後に米国南東部のミシシッピ州(Mississippi)、アラバマ州(Alabama)、ルイジアナ州(Louisiana)にいた先住民チョクトー族(Choctaw)の奴隷が歌っていたのを採譜されたといわれます。作詞・作曲者は不明ですが、素晴らしい内容の歌です。

題名にはチャリオット(Chariot)とあります。チャリオットとは、兵士を乗せ馬に引かせる戦闘用馬車を指します。太古の時代、シュメール(Sumerian)、ヒッタイト(Hittite)、アッシリア(Assyrian、古代エジプト、ローマ、ペルシア(Persia)、古代中国、古代インドなどで戦闘用に使用されました。

Chariotに乗って天国へ昇る描写が旧約聖書にあります。列王記(Books of Kings)21章27-29節に登場するユダヤ人の預言者エリヤ(Prophet Elijah)が火の馬が曳く日の戦車に乗って天に昇っていく、という記述です。

なお、19世紀初頭のアメリカで南部州から黒人奴隷を北部州に逃亡させる活動をしていた秘密組織「地下鉄道(Underground Railroad)」を「チャリオット=北部州への亡命」という意味で使われたと指摘する説もあります。

心に残る名曲 その三十一 「深い河」「Deep River」

黒人霊歌『深い河』(Deep River)の歌詞に登場するヨルダン川(Jordan River)は、洗礼者ヨハネ(John the Baptist,) がイエス・キリストに洗礼を授けた場所をいわれます。新約聖書に記述されていて神聖な川とされます。マタイによる福音書(Matthew)1:13-16に、ヨルダン川にて洗礼を授けるヨハネとイエスとの会話があります。

ヨルダン川はイスラエル(Israel)、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)の国境が接するゴラン高原(Golan Heights)やアンチレバノン山脈(Anti Lebanon Mountains)周辺を水源とし、北から南へ流れ、イスラエル北部のガリラヤ湖(Sea of Galilee)を経て死海(Dead Sea)へ注いでいます。

ところでアメリカ東海岸にあるノースカロライナ州(State of North Carolina)のギルフォード郡(Guilford County)には、黒人霊歌『深い河』のタイトルと同じくその名も「Deep River」という川があります。黒人霊歌『深い河』との関係が気になります。

この川と黒人霊歌『深い河』との関係については明らかではありませんが次のような説もあります。19世紀のギルフォード郡周辺には奴隷解放運動を推進していたクエーカー教徒(Quaker)がいました。「地下鉄道(Underground Railroad」と呼ばれた奴隷逃亡の幇助組織を支えた人々です。郡民の多くは奴隷制度に反対だったようです。ギルフォード郡の鉄道の設立者の一人、リーヴァイ・コッフィン(Levi Coffin)は奴隷廃止論者として、南北戦争前に2,000人以上の奴隷を逃亡させ自由を与えたといわれます。

このようにクエーカー教徒や関係者によって黒人霊歌『深い河』が作曲されたのではないかとも考えられています。

Deep river, my home is over Jordan,
Deep river, Lord, I want to cross over into camp-ground.
Oh, don’t you want to go to that gospel feast,
That promised land where all is peace?
Oh deep river, Lord, I want to cross over into camp-ground.

心に残る名曲 その三十 「黒人霊歌」 その2 Spiritual Song

アフリカ系アメリカ人(African American)の民族音楽といえば、彼らの教会から生まれた宗教的霊感に満ちた黒人霊歌(Spiritual Song)、アフリカの伝統と解釈される労働歌、第一次大戦後、南部農業地帯から北部の都市に移動したアフリカ系アメリカ人が歌ったブルース(Bruce)などがあります。

黒人霊歌には、悲しみ、落胆、絶望、喜び、信頼、失敗、勝利の感情表現があります。神とその正義を信頼する歌なので、憎しみの表現はありません。これは驚くべきことです。労働歌は共同の農作業、道路工事などに従事する黒人が歌ったものです。

アフリカ系アメリカ人はポピュラー音楽にも強い影響を与えてきました。数え切れないほどの歌手やグループが活躍します。ゴスペル音楽はアフリカ系アメリカ人の間で愛好され、マリアン・アンダーソン(Marian Anderson)のような歌手によって最高の形式に高められたといわれます。彼女の深い響きを持つ低声は、力強さを感じさせ劇的な表現力を持った名実ともにアメリカを代表するアルト歌手といわれました。1960年代にはアメリカポピュラー音楽の本流と混合し「ソウル(soul)」と呼ばれる新しいロックスタイルを生みだしていきます。

アメリカの霊歌「Spiritual」には奥深い歴史があります。霊歌という言葉は霊魂の歌「Spiritual Song」を縮めたものです。既存の讃美歌や聖歌と形式や内容も違います。霊歌はアフリカ系アメリカ人と結びついています。綿花畑(Plantation)で働く奴隷の信仰復活運動の讃美歌で、アフリカの答唱歌の伝統に基づいています。先唱者がいて、会衆がそれに答えて一行一行歌うのです。集会や礼拝で霊歌をきく人々は、心が自然と高ぶり、あたかも霊に動かされるように一緒にハレルヤ、アーメンと歌い出したり叫んだりします。

19世紀後半になると、フィスク大学(Fisk University)大学で生まれたアフリカ系アメリカ人のア・カペラ(a cappella)アンサンブル、フィスク・ジュビリー・シンガーズ(Fisk Jubilee Singers)が古い聖歌を蒐集して編集し、多くの霊歌が広まります。

心に残る名曲 その二十九 「黒人霊歌」 その1 奴隷制度の廃止

アメリカにおける「黒人」の呼び方は時代によって変わってきました。奴隷解放後は南部の白人は「カラード(colored)」と呼びました。次いで「ニグロ(negro)」となっていきます。1960年代になると、黒人自らが「ブラックアメリカン(Black American)」とか「アフロアメリカン(Afro American)」と呼ぶようになります。やがて二グロは学術的にも一般的にも差別用語とされ使われなくなります。

「アフロアメリカン」とか「アフリカンアメリカン」という表現は、アフリカが黒人の祖先の出身地としてばかりでなく、文化的出自、文化的アイデンティティを与えるものとして見直されてきます。時代は下り1990年代になると黒人が最も好ましい呼称として選ぶのは「Black American」とか「African American」です。「Japanese American」, 「Chinese American」というように出自を明確にしている点が共通しています。

アメリカの黒人が、アフリカのどの部族にルーツをたどれるかははっきりわかりません。しかし、大部分の奴隷がアフリカ西海岸の西サハラからアンゴラに至る地帯だと推測されます。1619年にヴァージニア州(Common Welth of Virginia)のジェームスタウン(Jamestown)に最初の黒人が上陸します。最初は年季奉公人(Indentuared Servants)と呼ばれました。18世紀になると黒人を奴隷とすることに反対する人々や組織が生まれます。その中心がクエーカー教徒(Quaker)であります。このことは前回述べました。

独立戦争では奴隷制度に反対する世論が高まります。フィラデルフィア(Philadelphia)では、指導的な市民によって「黒人を救済する会( Pennsylvania Abolition Society (PAS) 」が生まれます。それに続いてマサチューセッツ州は1780年に奴隷制度を撤廃する憲法を施行します。ペンシルヴァニア州が奴隷制度を廃止するのは1820年です。ニューヨーク州(New York)、ニュージャージ州(New Jersey)などがそれに続きます。

南北戦争中である1862年9月にエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が、連邦軍と戦っていた南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じます。そして合衆国憲法の修正第13条が承認され、アメリカ合衆国全体で法的に奴隷制が廃止されたのは1865年のことです。あくまで法制上の廃止です。

心に残る名曲 その二十八 「シェナンド」Shenandoah

「シェナンド」は19世紀から歌われている合衆国の民謡で、歌詞から「オー・シェナンド」(Oh, Shenandoah)とか「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Missouri)とも呼ばれています。シェナンドは西部へ渡った人がヴァージニア州のシェナンド川またはシェナンド・バレー(Shenandoah Valley)を懐かしんで歌ったとも、そこに住む恋人のネイティブ・アメリカンの娘を焦がれる唄ともいわれます。歌詞からそのことが伺われます。

Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away you rolling river.
Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away, we’re bound away
‘Cross the wide Missouri

Oh, Shenandoah, I love your daughter,
Away, you rolling river.
For her I’d cross your roaming waters,
Away, I’m bound away
‘Cross the wide Missouri.

19世紀に至るまで、富を求めビーバーを捕獲する冒険家や交易商人がミズリー川の西に進出していました。多くはカナダからの毛皮商人です。孤独な旅をしながら時に原住民の女性と仲良くなったり結婚したりします。こうして恋の唄が作られます。

イロコイ・インディアン(Iroquiois)に「Shenandoah」と呼ばれた酋長いました。この酋長の娘と恋に落ちた旅人が歌ったのが「シェナンド」というのが本筋です。この曲を作ったのは、恐らくカナダ人で歌の上手な探検家ではなかったかという説があります。当時の交易手段は河川や運河を漕いでいくことです。そこで荷物を積み運ぶ商人はボートマン(boatman)と呼ばれ、非常に重宝されたようです。

「Shenandoah」はアメリカ史では、アメリカインディアンとして有名な酋長です。そのせいでしょうか、彼の名をつけた街があちこちにあります。この歌は海の上でも歌われ「Sea Shanties」とも呼ばれます。荷役をする人々、錨を上げ下げする人々の舟唄、労働歌のことです。

心に残る名曲 その二十七 Jerusalem(聖歌)

18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake)の詩に、同国の作曲家チャールズ・パリー(Sir Charles Hubert Hastings Parry)が1916年にオルガン伴奏による合唱曲を作ったのが「Jerusalem」です。後にエドワード・エルガー(Edward William Elgar)によって編曲され管弦楽伴奏版も作られました。毎年夏にロンドンで開催されるBBC主催の音楽祭「プロムス(Proms)」の最終夜に、国歌「女王陛下万歳」や第二の国歌とも呼ばれるエルガーの「希望と栄光の国」と共に必ず演奏されます。

「Jerusalem」は事実上のイングランドの国歌といわれています。1981年に作られた映画「炎のランナー(Chariots of Fire)」でもこの聖歌が歌われました。「Jerusalem」の歌詞は次のような内容です。私なりに訳してみました。

And did those feet in ancient time
 Walk upon England’s mountains green?
 And was the holy lamb of God
 On England’s pleasant pastures seen?
 And did the Countenance Divine,
 Shine forth upon our clouded hills?
 And was Jerusalem builded here,
 Among these dark Satanic Mills?

いにしえの時に人々が
 イングランドの緑なす山並を歩いたのか?
  神の子羊もイングランドの心地良い牧ばに顕れたのか?
 雲立ち込める丘に神のみ顔が輝き出でたというのか?
 かつてのエルサレムが存在したのか?
 陰うつで邪なる粉ひき小屋の間に

毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にするポピュラー音楽の祭典、プロムス最終夜にオーケストラに合わせて参加者全員が歌います。

心に残る名曲 その二十六 「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」とボヘミアの国民的作曲家

ヨーロッパの中心に位置するチェコですが、チェコ人音楽家は作曲家としてよりも演奏家として評価されていたといわれます。スメタナらはそのことを意識していたようです。親友であったハンガリー人のフランツ・リスト(Franz Liszt)が創始した交響詩(symphonic poem)をスメタナも書き始めます。交響詩とは管弦楽によって詩的、絵画的内容を描写し表現する一楽章の音楽形式のことです。チェコ人としての音楽作りという一種のナショナリズムが生まれたといわれます。

それ以降はスメタナオペラに目を向け、オペラ「リブシェ(Libuse)」を書き、交響詩「我が祖国」はチェコ民族を賛美するという意図で書かれた作品です。モルダウ(Moldau)は余りにも有名な旋律です。こうした作品と書いた時期は彼の愛国的な情熱が絶頂に達した頃のようです。その後、「売られた花嫁」などでチェコ固有の音楽形式を作り出していきます。

スメタナがボヘミア音楽の先駆者とすれば、ドボルジャークは最初の国民的大作曲家といえそうです。文化や風俗を反映する主題を駆使し、新しい音楽の独自性と独創性を世界に問い直したといえましょう。八つのオペラ、多くの交響詩に祖国の伝説や歴史、英雄、風景さらに思想を取り入れ、他のいかなる国民的作曲家の追随を許しません。

「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」はドボルジャークの傑作の一つといわれています。アイオワ州北東部にあったチェコ人コミュニティとの交わりからできた作品です。いくつかの主題には五音階に傾いています。断然素晴らしいのは第二楽章のゆるやかなレント(lento)。哀愁をたたえはじけるようなヴァイオリンの旋律、他の楽章にも行き渡る活気をあらわしています。
特定の形式や拍子テンポに縛られないスケルツオ(scherzo)は楽章はアイオワ州の森林地帯できいた鳥の鳴き声をメモし、作曲に利用したとあります。

第四楽章には、原始的な特徴、ネイティブアメリカンの歌の断片を取り入れています。ナショナル音楽院のハリーパリー(Harry Parry)という学生の黒人霊歌を聴き、深い関心をいだいたといわれます。その影響を感じさせる曲です。