アメリカの文化 その11  都市のニックネーム

アメリカの文化をいろいろな角度から取り上げています。文化を表すのはなんといっても言葉です。今回は、都市についている面白いニックネームから文化を考えていきます。ニックネームには謂われや歴史があります。

私の第二の故郷であるマディソン(Madison) は、ウィスコンシン(Wisconsin)の州都で大学街でもあります。大勢の若者が学び暮らしています。政治や経済、スポーツに敏感な世代ですから、気にくわないことあると怒り(mad)を露わにしがちです。そんなことから「MadCity」というニックネームがついています。人種差別や女性蔑視などが話題となるとヒートアップします。今回の大統領選挙でも、「America First!」などと叫ぶものなら、いっぺんに叩かれてしまいます。大きなデモが大学へつながる大通りでひらかれると、店やレストランは板で窓をふさぐほどです。時に学生が時に怒りを発散して暴徒化することもあるからです。

ウィスコンシン州全体では農村地帯が広がり、保守的な人々の暮らすコミュニティが多いので共和党支持者が多いです。カトリック教会やルーテル教会の信徒も多く、伝統的な信条を大事にしています。しかし、マディソンやミルウオーキー(Milwaukee)といった都会の住民は違います。伝統にあまりとらわれない進歩的というかリベラルで民主党が強いところです。

ニューヨーク(New York) のニックネームはご存知「The Big Apple」です。この名称はいくつかの説があるようですが、人気のあるのは、かつてイブ(Eve)という有名な娼婦がいたというのです。旧約聖書に禁断の実であるリンゴを食べたイブから由来しています。その他に、ジャズメンたちがの間で、もしニューヨークでデビューすれば、ご褒美としてリンゴをかじることができる (a bite of the apple)、つまり成功の機会がえられるということから「The Big Apple」と呼ばれるようになったという説です。

シカゴ(Chicago)のニックネーム「Windy City」です。ミシガン湖からの風を指すようです。冬は寒いですが、夏は涼しく過ごせる、という宣伝文句ともなっているようです。「Windy」には「口うるさい」「おしゃべりな」という意味もあります。シカゴ出身の政治家を揶揄する言葉ともいわれます。

ラスベガス(Las Vegas) のニックネームは「 Sin City」。さしずめ「罪深い街」とでもいったところです。ネバダ州の最大都市です。カジノが並びギャンブルで有名です。全米から観光客がやってきては一時の大当たりを楽しむのです。私はまだ楽しんだことがありません。ちなみに「Vega」 とはスペイン語で「肥沃な土地」を意味する女性名詞です。24時間営業のレストランなども全てのホテルにあり、「眠らない街」ともいわれます。「Sin City」にぴったりです。

アメリカの文化 その10 テニュア

アメリカの大学では、身分保障を得られれば定年はありません。建前上は死ぬまで働いてもよいのですが、研究費をとれるという条件です。これは終身身分保障によるもので、「テニュア」(tenure)、あるいは「テニュアトラック」(tenure-track) と呼ばれます。

大学教員になるには、学位は必須です。博士号を取得すると任期付きの講師(lecturer)、ポスドク(post doctor)研究員、そしてテニュアが期待される助教授(associate professor)のいずれかのポジションを取得することになります。大抵は3年の雇用契約です。ここから終身雇用身分であるテニュアへの途が始まります。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しで、渡り鳥のように転々と教職を探すのです。テニュアというのは、優秀な研究者に与えられる身分保障制度のことで、これによって学問の自由が保障されると同時に、経済的に安定した生活も保障されるのです。

professors work hard to stay on track

どの大学でもテニュアになるための基準があります。テニュアの審査応募資格としてはテニュアのポジションに在籍していること、審査期間の5年間に優れた研究業績があること、しっかりした学生指導の実績があること、学部の教務に精励していること、助教授(assistant professor) の肩書きを持っていることなどです。テニュアをとろうとする助教授は、いくつかの学内委員会の審査を通過して、大学の理事会が承認するのです。このように研究活動、教育活動、教務活動の全てにおいて優れていることが要求されます。

研究活動においては査読付き学術論文を複数発表していることも要求されます。審査付学会報告などを複数持っていないとテニュアの取得は困難といえます。テニュアをとると海外などでのサバティカル(Sabbatical leave)という自由な研究活動が与えられます。欧米では広く普及している休暇制度です。テニュアを得た教授は、大抵は5年毎に休暇を貰えます。休暇の期間は半年か1年です。半年の場合は給与は半額が支給され、一年の場合は無給というのが一般的です。

アメリカの文化 その6  洗濯物の外干し

アメリカでは景観の保護や放火・窃盗などの防犯を理由に、洗濯物を外に干さないのが一般的です。また、州によっては法によって外干しが禁止されている場合もあります。そのため、賃貸の物件には、乾燥機が必ず備え付けられています。ウィスコンシン大学の院生の家族寮では、外におしめを干しているアメリカ人家族を見かけました。太陽にあてると殺菌され乾燥機よりは清潔だといっていました。確かに寮の洗濯機や乾燥機は、大勢の人によって使われるので気になる人もいます。

我が国でも高層マンションなどのベランダには洗濯物を見かけなくなりました。布団干しも厳禁です。私のように布団干しを趣味とするような者には、誠に気の毒に思えます。北京オリンピックなどのときも、政府は期間中は干し物を禁止したとか、の話をききました。美観のためなのでしょう。東京オリンピックの期間中は、どうなるのでしょうか。外干しは日本の文化だと思うのですが、、、、

最近ではアメリカ国内でもアジア圏の文化が浸透しつつあり、家の中で靴を脱ぐ家庭も増えてきています。アメリカ人に招待されたときなどは、玄関で靴を脱いだ方がよいようです。そのほうが清潔であることがアメリカの家庭でも行き渡っています。

アメリカの文化  その6 ハグされた思い出

今日3月17日はセイント・パトリックス・デイ(St. Patrick’s Day)です。この日は本題と関係があります。アメリカではハグ (hug) はアメリの文化だけでなく、世界中の文化といってよいほど広く行き渡る行為です。日本でも、若者を中心にハグは当たり前のようになってきました。家族や友人・恋人同士など親しい間柄でのハグは見ていてほほえましいものです。 会ったとき、別れるときなどのタイミングにです。 お互いアイコンタクトをとり、両手を広げてやさしく抱きしめポンポンと軽くたたいたりします。 相手との関係によって肩や背中をぎゅっと抱きしめたりします。一般的には、さらっと終わらせるのがちょうどよいようです。

アメリカではハグは頻繁に行われます。 ですがそれにもエチケットやマナーがあります。まずは避けたいハグです。男性から女性に対してハグをするのは基本的にNGです。男性の方は気を付けるようにしましょう。女性からであれば男性でも女性でもハグをしても問題ありません。このあたりが、ジェンダーの話題として微妙なところです。

次ぎに、初対面でハグをするというのは大きな間違いです。全く知らない人にハグをする習慣はどこにもありません。どんな場合でもそうです。ビジネスの場面では、男女間でも握手のほうが挨拶としては使われます。 はじめのうちは慣れなくておどおどしてしまうかもしれません。 しかしこれは相手を傷つけてしまう可能性があるので、恥ずかしがらずに笑顔で対応するようにしたいものです。

Hug me for luck. Funny St. Patrick’s day saying for t-shirts and cards. Brush lettering design with clovers.

ハグは「大きな愛」という意味もあります。 相手への感情を伝えるコミュニケーションの手段です。相手への気持ちをこめて行うことがよいようです。頬と頬をくっつけるチークキス(cheek kissing)もあります。親しい友人や親せきなど、基本的には仲の良い人に対して行いう挨拶の仕方です。

アメリカの文化 その4  「Groundhog Day」

世界の各地にはいろいろな占いや伝承行事があります。豊作や大漁を占う行事が我が国にもあります。「占いなんて非科学的だ」といって否定するのはユーモアのセンスが足りないような気がします。時に占いをして笑うのもいいのではないでしょうか。

アメリカでは2月2日はキャンドルマス(candlemas 聖燭節)といって聖母マリアを清める日とされます。この日は、春の訪れを予想する天気占いの行事にグラウンドホッグデー(Groundhog Day)ともいわれています。冬眠から目覚めたマーモットの一種であるグラウンドホッグ(groundhog) が自分の影を見れば冬はまだ長引くと占われるのです。グラウンドホッグは、リス科マーモット属に分類されています。グラウンドホッグデーの風習は、ドイツやオーストリアで2月2日に行われ、アナグマがこの日に出て陽を浴びると4週間冬が長引くという天気占いが行われました。時に、動物はクマやキツネであったようです。本来はクマなのですが、数の減少とともに他の冬眠動物に代用されたとされます。

19世紀になると、グラウンドホッグデーはアメリカのドイツ系移民の間で始まったといわれます。ドイツではこの動物をグラウンドホッグに代用し、4週間を6週間としたのがドイツ系アメリカ人版というわけです。ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれるドイツ系移民は、グラウンドホッグのことを、母国語で「アナグマ」という意味の「ダックスdachs)」と呼んでいたようです。

アメリカの文化 その1 多言語、多文化の国

今回から「アメリカの文化」というテーマでいろいろな話題を提供してみます。とはいっても原稿は私の狭い経験によるものばかりです。

アメリカは英語を話す国というのは当たり前ですが、アメリカには法によって定められた公用語は存在しません。アメリカ国籍の90%以上が、英語を使用しており事実上の公用語となっています。ですからビジネスや学校では英語を使用しています。驚くなかれ、アメリカ国内では300種類以上の言語が使用されていると言われています。それだけにアメリカは多言語とか多民族国家の代表といえます。英語に続いて使われるのがスペイン語、フランス語、アラビア語、中国語などとなっています。

民族ですが、ドイツ系アメリカ人 (German American)が最も多くを占めています。ドイツ(Germany) およびオーストリア(Austria)、スイス(Switzerland) 、リヒテンシュタイン (Liechtenstein)、ルクセンブルク(Luxembourg)、アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)などのドイツ語圏に住んでいた者やその国籍所持者、またはその子孫のことです。今でもドイツ語での礼拝が行われるほど、ドイツ人としての思い入れは深いといえます。

私がかつて住んでいたウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison) には、ノルウェー人(Norwegian)を祖先に持つ者が住んでいます。現在、全米には450万人以上もいるといわれ、その55%が中西部のミネソタやウィスコンシンに住んでいます。ノルウェー人の北米への組織的な移住は1825年に始まります。その理由や、母国におけるクエーカー(Quaker)及びハウゲ運動(Haugean) に対する宗教弾圧から逃れてきたのです。最初に北米にやってきた人々のことを「ノルウェーのメイフラワー号」と呼ぶこともあります。ノルウェー系アメリカ人のコミュニティが各地にあり、母国の独立記念日を祝う集いを続けています。

旅のエピソード その50 「モスクワの空港と税関」

イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマ(Rome)の郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino) を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグキャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow) のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この選択は間違ったことを後で知りました。

まずは、機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントは誠にぶっきらぼうです。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ取られました。フィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、すでに到着していた長男夫婦が 「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」 というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうと、まだモスクワにあるというのです。一緒に来ていた孫に持ってきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Florence)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナワイン(Toscana Wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして 「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。税関職員があとでそのワインを楽しんで仕事の疲れを癒したはずです。

旅のエピソード その48 「ジョージアからウィスコンシンへ」

U-Hallに10個位のスーツケースを載せてウィスコンシンへ向かう途中のエピソードです。車はGM製のシボレーマリブ(Chevrolet Malibu)という中型の中古車です。ジョージア(Georgia) にいた元宣教師さんから譲り受けました。中型のセダンといっても日本では大型車のようにゆったりしています。長距離運転にはたいそう楽です。

インターステイト(Interstate) という州を結ぶ高速道路を走り、テネシー州(Tennessee)やケンタッキー州(Kentucky) の景色も楽しみました。インディアナ州(Indiana) に入ったとき、車の調子がおかしくなりました。高速道路から外れて、小さな街に入りそこのサービスステーションで具合を調べてもらいました。トランスミッションの部品を交換する必要があるというのです。部品を取り寄せるので、修理は翌日となるとの見立てです。街にはモーテルはありません。

仕方なく従業員に頼んで持参していたテントを駐車場に張らせてもらいました。そこで野宿となりました。クーラーに詰めてあった食糧や飲み物で夕食をとっていると、不審者だと思ったのかパトカーがやってきて、「どうしたのか」と尋ねるのです。事情を説明すると「気をつけなさい」 という言葉です。日本人の家族がテントを張っているのは、この街では始めてではなかったでしょうか。

この経験から学んだことは、サービスステーションは給油だけでなく、車も修理をする所だということでした。従業員は車のことを熟知しているのです。このマリブは20万マイルも走って大分疲れていたようでした。32万キロという距離です。後に車輪のベアリングが摩滅して動かなくなったり、バッテリーが破損するなどのトラブルに見舞われました。アメリカで最初に乗った車でしたので、自分でも見よう見まねで簡単な修理をしました。エンジンオイル、トランスミッションオイル、スパークプラグなどの交換、ラジエーター液やフィルターの交換などの作業です。450ドルで手放すときは少々しんみりしたものです。

旅のエピソード その47 「U-Hall」

U-Hall。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。引越の際は、車で引っ張るトレーラーに家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Hallです。移動が好きなアメリカ人にはU-Hallは馴染みのものです。

U-Hallの大きさは様々です。今もU-Hallをとりつける連結器がついた大型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Hallの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。U-Hallには車の電源から流れて点滅するテールランプが付いています。

大型のU-Hallは自分で運転して家財を運びます。このとき、大型U-Hallに自分の車を取り付けて移動するのをよく見かけます。運転手が一人ですむという案配です。U-Hallをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Hallは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Hallは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Hallは切っても切り離せません。自分のことは自分でやる(Do It Yourself: DIY)という考えがU-Hallの発展にみられます。

旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。