心に残る一冊 その82   「初蕾」 小太郎の父帰る

「初蕾」の二回目です。うめの乳母としての役割は、小太郎の一歳の誕生までということになっていました。やがて、せめて立ち歩きのできるまでということになり、うめの乳母は続きます。児に愛をもってしまっては身がひけなくなる、深い愛情の生まれないうちに出ようとうめは決心していました。

然し、怖れていた愛情はすでにぬきさしならぬ激しさで彼女を小太郎に結びつけていきます。それだけでなく、小太郎をとおして梶井夫妻までその愛情がつながっていくのです。実はうめはお民だったのです。

良左右衛門はうめに素読を教えることになり、決まって少しずつ稽古をしていきます。小太郎は六つのときに疱瘡にかかります。うめは昼夜一睡もせず看病をするのです。やがて小太郎は袴着の祝いをします。そのとき、老臣が半之助の居所を良左右衛門に伝えるのです。殿が昌平坂学問所の日課に出たとき、講壇にあがったのが半之助でした。その才能を認められ学問所の助教に挙げられたのです。殿が帰国のときに半之助もお供をするというのです。それを側できいていたうめは愕然とします。

うめは鳥羽の海の見える梅林の中にやってきます。
「どうしてお泣きになるの」
うめが振り返るとはま女は小太郎を連れています。
「半之助が帰ってくるのです。喜んでもいいはずではないか、あなたがお民どのだということも、小太郎が半之助の子だということも、私たちはずっと以前からわかっていたのですよ」
「でも、ご隠居さま、わたしは決して、、、」
「仰るな、過ぎ去ったことは忘れましょう、半之助が帰ってくること、小太郎をなかに新しい月日のはじまること、あなたはそれだけ考えればよいのです」
「わたしにはできません、、、」
「わたしは梶井家の嫁になる資格はございません」
「そうするつもりもございませんし、半之助さまに対しましても、、」

もう一度云います。過ぎ去ったことは忘れましょう。七年前のあなたも今のあなたとの違いは私たちが朝夕一緒にいて拝見しています。旦那様がなぜ素読の稽古をなすったか、あなたにもわからないことはないはずです」

はま女はそういって傍らの梅の枝を指します。
ご覧なさい、この梅にはまた蕾がふくらみかけています。去年の花は散ったことを忘れたかのように、どの枝も始めて花を咲かせるような新しさで活き活きと蕾をふくらませています」
「帰ってくる半之助にとっても自分が初蕾であるように、あなたの考えることはそれだけです」
「女にとってはどんな義理よりも夫婦の愛というものが大切なのですよ」

「おかあさま、、」 うめは泣きながらはま女の胸にもたれかかるのです。

心に残る一冊 その81   「初蕾」 捨て児

半之助の両親は梶井良左右衛門とはま。良左右衛門は、倅の責を負って致仕します。致仕とは、官位を君主に還すことです。ですが殿が「領内に永住すること」というお沙汰があったので、夫婦は蔬菜をつくり、庭の手入れをしながら老後をおくっています。あるとき、はま女が夫に「これからは夜長になりますから、御書見でもあそばせ」、「お書物の行李でも明けましては?」と云うのです。行李の中の書物は半之助のものでした。

  ある夜、良左右衛門とはまの家の裏に捨て児が置かれているのを二人は発見します。そしてその乳飲み子を育てることにし名前を小太郎と名付けます。鳥居という隠居の名主に連れられて若い女が乳母としてやってきます。名を「うめ」といいました。起ち居や言葉つきはずっと世慣れて、蓮葉に思えるほどぱきぱきしていました。蓮葉とは、仕草や言葉が下品で軽はずみなことを示します。それを見て、はま女は云うのです。
「初めに云っておきましょう」
「お乳をやるときは、清らかな正しい心で姿勢もきちんとするようにしてください」
「乳をやる者の気持ちや心がまえは、乳といっしょにみな児に伝わるものですからね。小太郎は侍の児ですから、それだけは忘れず守っていただきます」

うめには欠点が多かったのですが、赤児の世話だけは親身になっていました。風邪けで具合の悪いとき、背負ったまま幾夜か寝ずに看病し、はま女の気持ちを惹き付けていきます。はま女はうめに云います。
「あなた、習字をなさらぬか」
「読み書きぐらいは覚えて損のないものです」
「よかったらお手引きぐらいはしてあげますから」

姿勢を正し、墨を摺る、手本を開き紙をのべ、呼吸を整えて静かに硯へ筆を入れます。習字をした終の清々しさをうめは感じるのです。
「乳をやるときは清らかな正しい気持ちでとおっしゃった、あれはこのような気持ちをいうのだな」
こうして月日は経過していきます。

心に残る一冊 その80   「初蕾」 お民

山本周五郎の「初蕾」という短編小説です。舞台は鳥羽港のあたりです。梶井半之助という若者がいます。見栄や衒いが少しもなく、かといって美男子でもありません。背は余り高くなく、笑うと眼が糸がひくように細くなります。酔ってうたう歌は調子はずれ。どこといって取り柄のない風貌です。然し半之助からゆったりと大きな温かさを感じ、静かに押し包まれるような気持ちにさせられるのがお民という女性です。

半之助は幼少から学問の好きな子で、やがて藩の学塾では秀才といわれ、17歳のときは塾の助教を命じられるほどです。ですが22歳のとき、彼の思想が老子の異端に類するといわれ、助教の職を追われるのです。彼の才能を妬むものの仕業でありました。

江戸時代では学問をする者は「道」を説く老荘思想を退けるのは自然。然し、朱子学以外に眼をつむることは単に御用学者として怠慢と云わなければならない、そう半之助は考えたのです。職を追われると半之助は性格が変わり、酒を呑んだり茶屋出入りをするようになります。

お民の兄と母が病で亡くなり、13歳のお民は「ふじむら」という店に奉公に出されます。お民は成長するにつれ、店にやってくる半之助の酌をしながら二人は語らい合うようになります。
「夫婦になっても3年か5年、くすぶった気持ちで厭々暮らすよりも、好きなうち、こうした楽しく逢い、飽きたらさっぱり別れてしまう。これが人間らいしい生き方じゃないか」
「その約束をしましょう、好きなうちは逢う、飽きたら飽きたと策さず云う、そしてあとくされなしに別れる、、、、、きっとですよ」

こうして二人の人目を忍ぶ逢瀬が続きます。半之助はやがて森田久馬という友人とそれぞれの生き方の違いで口論となり果たし合いをしてしまいます。そしてお民に告白するのです。

「森田は正しいことを云っていた。おれがどんな下等な卑しい人間だったかということ、おまえとこういう仲になっていながら、好きなうちは逢おう、飽きたらさっぱり別れよう、そんな約束まで平気でした。それが人間らしい生き方だったなどと云って、、」
「だが森田はこう云った。そういう考え方は人間を侮辱するものだ。幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつくということは、それがすでに神聖で厳粛だ、、、、きさまは自分を犬けだものにして恥ずかしくないか、この言葉が果たし合いの原因になったんだ、お民、」
「雨にうたれ、濡れて闇のなかをあるきながら、幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつく、それがどんなに厳粛かということを身にしみて悟った」
「お民、おれはお前を本当に愛していた、心から愛していたんだが、あんな約束はしたけど、気持ちには偽りはなかった、これから江戸に行って人間的になる」

そういって半之助はお民と別れそのまま行方しれずになります。

心に残る一冊 その79  「羅刹」

山本周五郎の作品を紹介しています。今回は「羅刹」という作品です。主人公の宇三郎は近江井関と呼ばれる面作りの師、かずさのすけ親信の門下生です。親信は京の三位侍従藤原糺公から「羅刹」の仮面の注文を受けます。「羅刹」とは仏教でいう守護神のことです。七夕会の催しでその面をつけて糺公は舞うのだというのです。

親信は三人の弟子を呼び、最も選れた傑れた仮面を作った者を井関の跡目とし、娘の留伊を娶らせるという条件で、羅刹の面のくらべ打ちを命じるのです。宇三郎はどうしても納得のいく面を彫ることができません。宇三郎を慕っていた留伊は、くじけそうになっている宇三郎に「あなたのほかに良人はありません」といって宇三郎を励ますのです。あるとき「羅刹」らしき面相を馬上の織田信長に見るのです。そして信長の姿を求めて京へやってきます。

本能寺の奥殿にまで身を挺して忍び入った宇三郎は織田信長の面貌に羅刹の相を見ます。そして信長最期の面を心に烙きつけのです。それを彫り上げて糺公に渡します。その面をつけてて舞う糺公を見た宇三郎は、踊り終えた糺公に平伏して云います。
「愚かにも百世にみる作と自負しておりました。然し、さきほど舞台に登る面を見ましたとき、私は増上慢の眼が覚めました。」
「これは名作どころか悪作の中の悪作、面作り師として愧死しなければならぬ邪徳の作でございます」

仮面は悪霊を退散させる羅刹の善性の面であるどころか、残忍で酷薄な形相であることを宇三郎は告白するのです。そしてその面を膝で打ち割ってしまします。それを聞いていた糺公と師匠の親信も宇三郎の言葉に深く感じ入るという物語です。

心に残る一冊 その78   「義理なさけ」

山本周五郎という人は、義理や人情を重んじるというより、正義とか道理をいうものを大事にして物語を組み立てるようなところがあります。人間の行動や志操、道徳を取り上げるのです。権威ある者を徹底して叩き、弱い市井の民の立場に与するのです。

「義理なさけ」の主人公は中山良左右衛門の息子、甲子雄と中山家のはしため、しず江です。甲子雄は、主家の大久保出羽守家の用人の娘と縁談が整います。非常に美貌とぬきんでた才芸をもっています。甲子雄の婚約が決まったとき、しず江は自分が甲子雄の子を宿しているという付け文を甲子雄渡して破談にしてしまうのです。甲子雄にとって全く身に覚えのない話です。実は縁談相手の娘が他の男と密通をしている証拠がでてきて、その娘は実家に帰されます。付け文は、その不義を知ったしず江の窮余の策だったのです。しず江も中山家を去ることになります。甲子雄は、破談になった自分が幸運であったことより、不義をしたその女が不幸な身の上であったことを哀れむのです。

やがて国詰となった甲子雄は、友人らとで立ち寄った菊屋という宿で女中になっているしず江に会います。甲子雄はしず江を嫁にしようと決心しますが、宿に戻ると、しず江は置き手紙をして身を隠すのです。

「お心にそむき申しそろ、今宵おこしあそばされてなに事の仰せあるやは僭越ながらおよそお察し申し上げそろ、川原にてのお言葉の端々、うれしくもったいなく、、、、お情けに甘えて己が身のためご縁談をこわし候ようにあいなり、義理あい立たぬ仕儀と存じ申しそろ。なにとぞしずのことはお忘れあそばし、一日も早く江戸へおたち帰りのうえ、よき奥様をお迎えあそばすよう、陰ながらお家百年のご繁昌をお祈り申しあげそろ。」

それを読み終えると甲子雄は決心します。そして近くにあるしず江の親戚の家へ馬を駆っていきます。「お前のほかよき妻があると思うか、会ったらそう云おう」

心に残る一冊 その77   「粗忽評判記」

山本周五郎の作品に「粗忽評判記」というのがあります。山本は好んで江戸時代に材をとり、市井の人々の悲喜や武士の哀感を描きます。庶民の側に立つという徹底した文筆態度です。権威ある者を風刺するような描き方をするのもあります。「粗忽評判記」もそうです。「小説というのは読後感が爽やかでなければならぬ」という信念を持って書いたといわれます。この作品も笑いがこみあげてくるようです。

主人公は苅田久之進という粗忽者です。粗忽とは、間抜け、おっちょこちょいということ。久之進の主君三浦壱岐守明敬も彼に劣らぬ粗忽な人です。壱岐守は、性急な質で忘れっぽく耳が早いという粗忽者の典型です。他方、久之進は落ち着き払って粗忽なことをやるので目だつこともこの上ないのです。

ある時、この二人が競争馬のことで馬と技の優劣を論じ合っています。壱岐守は次第に旗色が悪くなるので大いにせき、「では囲碁で勝敗を決めよう」と提案します。
「いかにも承知でござる」
久之進はにやにや笑いながら立っていきます。間もなく将棋盤を持ってきて据えます。落ち着いたものですが、肝心の物を間違えています。当人も気がつかないし壱岐守はもとより大いにせきこんでいるので、すぐに駒箱を明けながら「許す、先手で参れ」と云うのです。

「それはなりません。先手は下手なほうがとるもの。お上と拙者とでは段が違います」
「余の命令じゃ、先手で参れ!」
「御意なればやむを得ません、では、、」
久之進はしぶしぶ駒箱の中へ手を入れます。

ここで久之進は気がつくかと思うのですがそうではありません。指先で駒を弄りながらはてなと考えだします。碁は打つもの、将棋は並べて指すものです。駒と石とが違うのですから摘んではみますが、具合が変なのは当たり前です。

壱岐守も,駒を捻っていましたが、久之進の様子をみて、こいつまた何かそそっかしいとをしたなと思います。粗忽人の癖としてこうなると「失策だ」という考えだけで突き当たって他のことは忘れてしまうのでのす。しばらく駒を弄りまわしていましたが、ついに壱岐守がとって付けたように笑いだします。
「どうだ久之進、えーーどうだ、あははは、参ったか!」
何がどうなのか分かりません。ところが久之進のほうもまたひどく恐縮した様子で、「いやどうも、まことにどうも」
「あっははは、どうだ久之進、どうだ、どうだ、あっははは」

しきりにどうだ、どうだと云って笑っているのです。久之進も笑いだします。二人でしばらくけらけら笑っていましたが、やがて碁のことには一言も触れず、揃って庭のほうへ出て行くところをみると、両方とも何を間違えて可笑しくなったのか分からずじまいらしかったのです

心に残る一冊 その76  「朝顔草紙」  文絵

槍奉行が闇討ちにあったという知らせで監物が登城し、信太郎と小雪は相対して坐っています。
「文絵どのは拙者のことを存じだったでしょうか」
「はい、存じ上げておりました、、、生きているうちに一度はお目にかかりたい、一目お会いしてから死にたいと、口癖にように申しておりました」
小雪は袂を顔に押し当てて嗚咽し、しばし肩を振るわせます。
「失礼なお尋ねですが、先ほどのお琴は貴女がお弾きになったのですね」
「お恥ずかしゅう存じます」
「たしか朝顔の曲だと思いましたが、,」
「はい、、」
「亡き従姉上がお好きで、あの曲を弾くと、毎も、、、貴方様のことが想われると申しておりました」

そこへ、けたたましく犬の吠える声がおこり、「うるさい畜生だ、ぶった斬るぞ!」という荒々しい声が聞こえます。庭前へ鳥刺しの装束を着た男が二人、ずかずかと入ってきます。刃向かおうとする信太郎に小雪は止めにかかります。そして男達が去ると説明します。
あれは鳥刺しの組の者といいまして、領内いずれの屋敷へも出入り勝手とお上からお触れがでているのでございます」

信太郎は、槍を預けていた老番士に鳥刺しの組のことを訊きます。あの腹黒い奴神尾采女がお上を焚きつけて企てた仕事であることがわかります。堪りかねた相談役らがお上に諫言すると、ことごとく采女の部下らに暗殺されるというのです。信太郎は、槍奉行の闇討ちは鳥刺し組の仕業ということがわかります。

信太郎に烈火のような怒りが湧いてきます。そして神尾采女を屠ろうと計画します。采女の登城、下城のお供は厳重をきわめ、鉄砲二丁、槍五本、徒士二十人ということを探ります。討つなら下城の途中であると信太郎は考えます。采女の下城の行列がひたひたと宗念寺の塀の外にさしかかります。

采女の駕籠が眼前にさしかかると、信太郎は「神尾采女、天誅だ」と叫びながら駕籠の中に一槍いれます。手応えありとみるや、さっと槍を曳いて武林の中に引き返します。
「曲者、曲者!」と叫ぶ共侍を突き伏せると駕籠の側に近づき「采女、采女!」と呼びかけてぐいと引き戸を明けます。そして胸元深くトドメを刺します。

同じ頃、監物は居間で遺言状を認めています。最早どんな手段を使っても、采女の勢力をそぐことは出来ない、万策尽きた、腹を切ろう決心したのです。
「ご免ください」
「誰じゃ、」
「信太郎でございます」
「何処かへ出掛けたときいたが」
「はい、ちょっとそこまで出て参りました」

すっかり旅支度のできている信太郎をみて驚きます。
「どうしたのだ、その姿は」
「お暇仕りたいと存じまして」
「なに帰る、、、この夜中にか」

監物は小雪を呼び寄せます。そして信太郎が江戸に戻ることを伝えます。
「お別れについて、お願いがございます。文絵どののご位牌を頂戴いたしとうございます」
「未練だぞ、信太郎、文絵をそれほど想ってくれる志は忝ないが、その方は安倍の家名を継ぐべき大事な身の上、一日も早く他から嫁を迎えて、親に安心させるが孝の道だ」

監物は黙っています。小雪も蒼白めたおもてを伏せたままです。乳母のかねに対して、「かね、位牌をもってきてやれ」 監物がしばらくして云います。
「頂戴いたします」 信太郎はじっと位牌を見つめるとそれを旅の袋に収めます。

「お待ちくださいませ」と堪りかねたかねが叫びます。
「もうわたしは我慢ができません。お嬢様、どうか本当のことをお話あそばせ、、」
「これ何を申すか!」
「いえ、いえ申します、位牌を生涯の妻にするとまで仰せられた信太郎さまのお言葉が貴女にきこえませぬか、」
「安倍の若様、あなたのお持ち遊ばした位牌は、小雪といわれる旦那様の姪御のもの、これにおいでなさるのが、真の文絵さまでござりまする!」
信太郎は雷に撃たれたように立ちすくみます。

「信太郎、赦してくれ、、」
「かねの申すとおり、これが、、、文絵じゃ、いままで欺いていた罪を赦してくれ」
「何故、何故、またさような」
「十五年以前の約束を守って、遙々きてくれたお前にたいして、盲いた娘をこれが文絵だと云うことができようか、、わしにはできなかったのだ」

「文絵どの、お支度をなさい」信太郎がきっぱりと云います。
「どうするのじゃ、」
「駕籠は表にきています。すぐに江戸に出立いたしましょう」
「夜道をかけてはじめての夫婦旅、寒くないように支度をするのです」
「信太郎の妻は文絵どのです、さあ、」
「今宵ただ今から信太郎が貴女の眼になります。なにものも怖れずしっかりとこの手をつかんでおいでなさい」
「信太郎さま、、」

文絵の声は歓びと感動にわなわなと震えています。監物も乳母も泣きながら、然しつきあげてくる歓びに顔を輝かしています。

二人を送り出した半刻、監物のところに使者がきて神尾采女が何者かに闇討ちをかけられたことを伝えます。
「即刻ご登城くださるようにとのことです」
「そうか、信太郎め、采女をやりおったか」と監物は呻くように云うのです。

心に残る一冊 その75 「朝顔草紙」 藩の奸物

石見国浜田藩の物頭格で五百石を貰い仕えていた安倍信右衛門は、今は江戸に退身しています。藩主に直諫し暇をだされたのです。地位などに遠慮せずに、率直に相手を諫めたのが因です。その息子に信太郎がいます。二人の間で次のような会話が交わされます。

「突然のことでだが、そのほう明日江戸を立って、故郷まで行ってきて貰いたいのだ」
「石見へでございますか」
「石見の浜田だ」
「なんぞ急な御用でも、、、」
「一人、、、人を斬るのだ」
「父が永の暇をだされたのは十五年前、なぜ退身したかということは話をしていなかった、」
「その仔細ならあらまし存じております」
「亡くなる二年ほど前、母上から聞かせていただきました」
「では神尾采女のことを知って居るな?」
「はい」

「父が浜田を退身したのは、武士の本分に欠けていたからだ。真に君家を思うならば諫死をも辞すべきでない。少なくとも采女を斬って立ち退くくらいの覚悟が出来ないはずがなかった。それを、、、父はまだ若く客気満々であったため、尽くすべき本分を尽きずにきてしまった」

神尾采女は非常な才人で主君松平大和守の寵愛を受けていました。若くして御用人に取り立てられると、政治の面にまで進出し、奸曲の人物となっていました。それを信右衛門は再三再四遠ざけるように主君に進言したのです。それが因で暇をだされます。采女は、国老までのぼり、いまや藩政の実権を握り、藩の民を苦しめていることを信右衛門は知ります。

「十五年前に、父が斬っていたらこの禍根は残らなかった、、」
「首尾良く采女を討ち取ったら、国家老建部監物の娘、文絵どのを嫁に迎えて帰れ」と信右衛門は云います。

自分の未来の嫁がいるという夢を抱いて、信太郎は浜田に着くやいなや父の指示に従って国家老をしている建部監物の屋敷に落ち着きます。
「はい、実は、、、突然のことで、甚だ不躾とは存じますが、予て父が在藩中にお約束申し上げました。ご息女との婚約のことにつきまして、、、」
「おお、では文絵を迎えにきてくれたのか、、」

信太郎そっと眼を上げると監物の眉は苦しそうに深い縦しわを刻んでいます。ああ、すでに文絵は他に嫁したな、信太郎はそう思います。
「かたじけない、よく迎えにきてくれた」
「もし文絵が生きていたらどんなに悦んだことであろう」
「去年の秋から病みついて、この春の花を待たずに死んでしまったのだ」
「残念だが、最早なんとも致し方がない、諦めてくれ信太郎」
「、、仏間へご案内へ願えませぬか、」
「回向してくれるか、、さぞ文絵も喜ぶであろう」

寝苦しい一夜が明けます。気がつくとさして遠くない部屋から琴の音が聞こえてきます。哀調帯びた曲です。朝食の席に着いたとき、監物の隣に一人の娘が座っています。色の透き透るように白い、眉に憂いを含んだ淋しげな、然し驚くほど美しい顔立ちです。娘は盲いています。

監物が云います。
「これは文絵の従姉妹で小雪である、見るとおり眼が不自由であるが文絵とは姉妹のように育ってきた、彼女のことなら何でも知っている、話し相手になってくれ、、」
そのとき、監物が柴野という同僚の槍奉行が闇討ちにあった、という知らせをきいて急ぎ登城していきます。

心に残る一冊 その74 「無頼は討たず」

甲州街道、大月から半里を行くと笹子峠。右に清れつな流れを見ながら三十町で初狩という村です。山梨韮崎の貸元で佐貫屋庄兵衛という人がいました。気風も良く、金も切れ、おまけに徳性で子分の面倒をよくみていました。百人あまりの身内もでき、押しも押されぬ顔役になっていました。早くから「やくざはおれ一代限り」と宣言し、一人息子の半太郎を十五の歳に江戸の太物問屋に奉公に出していました。

庄兵衛と盃を飲み分けた弟分に猪之介という博打打がいました。鼻が大きいので「鼻猪之」といわれ、ひどく気の荒い本性です。お信という娘がいます。親に似ぬきりょうよしで、気性も優しいでき者です。猪之介は末は娘を庄兵衛の半太郎と夫婦にしようと考えています。

骨の髄までやくざに染まった猪之介は、やがてあぶれ者を身内に殖やして事毎く庄兵衛に楯突くようになります。あげくの果て、「やくざの縄張りは腕と腕でこい」とばかり縄張り荒らしをはじめます。

旦那衆の宴会の帰り道、庄兵衛は惨殺されます。噂では猪之介親分が手にかけたといわれます。半太郎が江戸から帰郷します。お身内衆が半太郎を出迎え復しゅうをしようと待ち構えます。しかし、半島は父の三十五日の席で集まった身内子分に対して、自分は佐貫屋一家をたたむと伝え、蓄えと家屋を払って子分に分け与えると云います。

「皆さん、わたしは父の敵を討とうなどとは思いません」
「なんでーざんすって?」
「やくざ渡世は初めから生命を賭けているはず。強い者が勝ち、弱い者が負ける、ただそれっきりの世界、人並みの義理や人情を持ち出すことのできない、いわば人間の道を踏み外した稼業でございましょう。斬るも斬られるのも素より稼業柄のことで、堅気の私どもから問われる事じゃありません」
「若親分!」
「おまえさん、それで口惜しくはありませんか、親を殺されて残念だとは思いませんか」
「それとこれとは話が別でございます」
「別とはどう別なんで!」
「それは云えません」
「おめえさんは臆病風にとりつかれているんだ、男の性根をなくしているんだ、なんだべら棒め!」

佐貫屋をたたんで半太郎は、それから母親とともに道外れに織物の小さな店をだします。毎日大きな荷物を背負って売り歩くのです。ある時、家に抜き身をもった男が裏の雨戸をけって飛び込んできます。
「すまねえが、ちょっとかくまってくんね、追われているんだ」
「やっ、、お前さんは猪之介、、、さん」
半太郎は猪之介を納戸に押し入れて後をしめます。そこに渡世風の男三四人が戸を蹴って踏み込んできます。
「いまここの鼻猪之の奴が逃げ込んだろう、どこへ隠した!」
「おまえさんらはどこの誰ですかい」
「誰だろうと汝の詮議には受けね、鼻猪之が来たろう訊いているんだ!」
「ええ、面倒だ、家探しをしろ!」

半太郎は殺された庄兵衛の息子であることをやくざに云います。佐貫屋の遺族の住居とは知らなかったので、やくざは出端をくじかれてしまいます。
「こりゃ悪いことをいたしました」と云いながら「野郎はどこへずらかりやがったか、」といって立ち去るのです。

半太郎のところに和田源という年寄役がきて、顔を貸して貰いたいと云います。その席に猪之介もいます。そして云います。
ふだんの付き合いどころか悪い因縁のある仲で、助けてくれた。お主の前に男の頭を下げてどんなにでもわびをする。どうか前の事は水に流して勘弁してもらいたい」
「悪かった、佐貫屋庄兵衛を殺したのはわるかった、面目ねえ、この通りだ」

とたんに半太郎の左手が伸びて和田源の腰の物をひっつかみます。
「小父さん、拝借!」というと立ち上がりざま、「父さんの敵、猪之介の首を貰うぞ」と叫びながら抜き打ちに斬りつけるのです。

「人を殺して悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かもしれぬが、人間じゃない犬畜生だ。犬畜生を親の敵と狙う私じゃありません。だが悪いことをしたと後悔して、人らしくなれば、お父さんの仇、今こを恨みを晴らさなければなりなせん。」
「は、、、放しておくんなせ」猪之介は苦しそうに叫びます。

「いまの、いまの一言で今日までの半太郎どんの、苦しい気持ちがよく分かった私あ斬られます。これで借りが返せるんだ、、、、」
「その代わり半太郎どんに頼みがある、どうかお信のことを頼みます。あれは私の実の子じゃね、死んだ女房の連れ子、おれとはこれっぼっち血のつながりのねえ娘だ」
「き、、きいてくれるっか半太郎どん」
「、、、承、、承知だ」と云って半太郎はどうと座り込むのです。

心に残る一冊 その73 足軽槍一筋

無辺流という槍の遣い手に成田平馬という足軽がいました。武士の格好をした仲間で庭掃きか傘張りの内職をする身分です。藩の槍術指南番が金井孫兵衛。その息子に孫次郎がいます。平馬と孫次郎は小さいときから「孫やん」、「平やん」と呼んだ仲です。孫次郎は平馬の妹、近子と結婚する約束をしていました。

平馬の側をとおりかかった武士達が平馬の格好をみて、「なるほど、足軽は庭掃きや内職をしていれば御用が足りるかも知れない」と云うのです。
「ひとたび戦場となれば御馬前の駈退きにおいてもいささかも貴殿がたとは相違ないです」
「高禄をはむ貴殿がたと内職する我らと、いざ合戦の場合、いずれかお役に立つか試してみるのも一興であろう。さあ参られい、、」

十四五人いた誰も答えるものはありませんでした。冗談にしてしまうには余りに云いすぎている、といって平馬と立ち会う自信はない。みな色を変えて沈黙します。

そこに指南役の息子孫次郎が「相手をしよう」と立ち上がります。力量と技の凄さに平馬の槍が孫次郎の脛へ三寸あまり突き刺さります。
「、、、、参った」

一座の者が「おのれ、無道な奴、その足軽を生きて帰すな、斬ってしまえ!」
「何をするか、控えぬか」と物頭役の相良藤右衛門が立ち塞がります。
「しかし、このままでは士分一統の辱め、」
「無用、自ら招いた辱めでないか、裁きは藤右衛門がつける、鎮まれ!」

藤右衛門が平馬に云います。
「平馬、困ったことをしてくれたの、」
「恐れ入ります。しかしあのように足軽を辱められては黙ってはいられませぬ」
「ようよい、事情が拙者がよく存じている。だがことがこうなってはとても穏やかには治まらぬ。気の毒だが当地を立ち退いてくれ」
「些少だが、餞別だ。辞退されるほどではないから取ってくれ」と云って藤右衛門は紙入れを取り出して手早く金を包みます。
「はい、、、かたじけのう、、、、」平馬と妹の近子は藩を立ち去ります。

それから二年が経ちます。どうかしてひとかどの武士になろうと喰わずの旅を続けます。槍一筋の途はどこにもありません。ようやく信濃国松代藩へ五両二人扶持の足軽として仕えることになります。近子には「お手当は少ないが、馬廻り士分だ」と偽ります。

藩の中に武林源兵衛という八百石の御側役がいました。その倅、源之蒸は槍術の達者というので、平馬もはやくからその名を知っていました。槍もできるが、乱暴者としても評判で、家来の若者を連れて傍若無人にのし歩いています。近子の美しさに眼をつけなにかとうるさく付きまとっていました。
買い物にと出掛けた近子はなかなか帰りません。
「大変だ、お妹が武林おどら息子に、、、」
「買い物をしている途中、乱暴者の源之蒸が通りがかりに無理矢理、屋敷の中に引きずり込んでしまったぞ、」

平馬は憤怒の血にたぎります。もう松代もこれ限りだ、、、源之蒸の屋敷に着くと平馬の槍が源之蒸の脇腹に石突きを返して肋骨の三枚目から突き折ったから「うーっつ」と横にのめります。追っ手を残らず突き伏せると、近子を連れて二人は駈けに駈けます。
「お前に詫びることがある」
「松代藩に仕える時、手当は少ないが馬廻り士分だといったが、、、実は足軽奉公だった、」
「お兄様、なにもおっしゃいますな。近も薄々存じてはおりました」
「しかし、これでよいのだ。どこへ行っても足軽から武士になる機会などありはしない」
「武士を望むなら武士として踏み出さなければならない」
「今宵のことは武道の神が易きにつこうとした平馬の情心を諫める思し召しであったのかもしれない」

追っ手を怖れる兄妹は夜をついて道を急ぎます。休息していると「おーい、おーい、」という後から呼び声がします。
「や、、追っ手か、、」
ゆきの坂道を駆け上ってくるものがあります。脇に槍をかかえ右足を引きずるようにしながら、寄ってきます。十間余りの処にきたとき、平馬は愕然として「あ、金井孫次郎!」

孫次郎は親父から二百石の槍術の指南役として推挙があったことを平馬に伝えのです。そして昔の呼び名で「平やん、帰ったら近子さんを嫁にくれ!」
「あ、こいつ」
「大きな声をだすなよ、近子さんに聞こえるやないか」