アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その34 『Cornhusker State』とネブラスカ州

ネブラスカ(Nebraska)はいろいろな思い出があります。 ネブラスカ大学の友人を訪ねたときのことです。デトロイト国際空港の入国審査場で審査官が家内におきまりの「どこへ行くのか?」と尋ねます。家内は「ネブラスカへ、、、」審査官「ネブラスカでなにをするのか?」、家内「観光です」、審査官は首を傾げて「ネブラスカへ観光へ行く日本人は初めてだ、、」というのです。どうも審査官はネブラスカは田舎か僻地だと思っていたらしいのです。

Corn Husker

州の東側には広大な草原、西側には壮大な崖や峰、東西間には砂丘など、どこへ行っても素晴らしい景色を堪能できます。ロデオ発祥の地であり、開拓者時代のランドマークがあり、西部開拓時代に入植者たちが通った歴史的な脇道が交差する州です。州都はリンカーン(Lincoln)で、最大の都市は州の東端にあるオマハ市(Omaha)です。広大な平原は、トウモロコシ畑が広がっています。州の愛称はコーンハスカー(トウモロコシの皮をむく人)『Cornhusker State』となっています。

Coach Tom Osborn

リンカーンにあるネブラスカ大学(University of Nebraska-Lincoln)にある自然史博物館(University of Nebraska, Morrill Hall) は恐竜の化石や開拓時代の道具、ネブラスカのインディアンの生活などを紹介するところで必見です。この博物館は、主に子ども達が社会見学で学べるような設備を用意しています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その146 スペイン支配の終焉と第一次フィリピン共和国

300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナでUSSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

他方、6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

Emilio Aguinaldo

8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約(1898年)により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。一方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日に反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

ホセ・リサール像

1900年3月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第2回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William H. Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その115 アラスカの購入と西部開拓と金鉱

1867年、国務長官ウイリアム・スワード(Secretary of State Seward) が議会を説得して、ロシアからアラスカを720万ドルで購入し、アメリカは大陸進出を完了します。その後、西部開拓は急速に進み、ミシシッピー以西に住むアメリカ国民の割合は、1880年の約22パーセントから1900年には27パーセントに増加します。世紀を通じて新しい州が加わり、1900年にはアメリカ本土でまだ州認定を待っている準州は3つだけとなりました。オクラホマ、アリゾナ、ニューメキシコの3州です。

Alaska

1890年、国勢調査局(Bureau of the Census)は、西部開拓の最前線を示す連続した線がもはや引けないと指摘します。西部への人口移動は続いていたものの、フロンティアは過去のものとなっていきました。農場から都市への人々の移動により、より正確に将来の傾向を予測することができるようになりました。1880年、国勢調査局によりますと、アメリカ国民の約28パーセントが都市と指定された地域に住んでいましたが、1900年には40パーセントに上昇します。この統計から、アメリカでは農村の勢力が衰退し、工業化社会が始まったことが読み取れます。

William Seward

エイブラハム・リンカンは、かつて西部を “国家の宝庫 “と表現しました。カリフォルニアで金が発見されてからの30年間、探鉱者たちは西部のすべての州や土地で金や銀を発見します。南北戦争後の時代には、本当に豊かな大発見はほとんどありませんでした。その中でも最も重要なのは、ネバダ州西部コムストックロード(Comstock Lode)での非常に豊かな銀の発見です。銀は1859年に初めて発見されますが、その後より広範囲に開発されていきます。1874年には、サウスダコタ州のブラックヒルズ(Black Hills) で、1891年には、コロラド州のクリプルクリーク(Cripple Creek)で金が発見されます。

金や銀が発見されると、すぐに鉱山町ができ、探鉱者たちの生活や娯楽を満たしていきます。鉱脈のほとんどが地表に近いところにあれば、探鉱者たちはすぐにそれを採掘して立ち去り、そこには良き時代を思い起こすようなゴーストタウンが残ります。鉱脈が深ければ、必要な機械を購入する資本を持つ組織的なグループが地下の富を採掘するために動き出し、鉱山の町は地元の産業の中心地として安定を取り戻していきます。鉱山の町は、最初は鉱夫のニーズを満たすために発展し、後に余剰生産物を西部の他の地域に輸出するために拡大した農業地域の商業の中心地として、確固たる地位を築いた例もあります

アメリカ合衆国建国の歴史 その107 在職任期法と弾劾決議

アンドリュ・ジョンソン大統領や北部の民主党員、および南部の白人は、共和党の再建計画に拍車をかけました。大統領は1866年8月にフィラデルフィアで開催された全国連合大会(National Union Convention)で新しい政党を組織しようとします。 8月から9月には、大統領は自分の政策を広め、共和党の指導者を攻撃するために、北部や西部の多くの都市を訪れます。大統領の強い要請により、テネシー州を除く南部のすべての州が圧倒的多数で修正第14 条を拒否します。

1866年秋の選挙で勝利した議会の共和党員は、1866年から1867年の会期中に、南部を再建するためのより厳しい第二の計画作りに動きます。過激派の共和党員と穏健派の共和党員の間の長く激しい論争の後、党指導者は最終的に1867年の第一次再建法に関して、妥協案を作成します。3つの補則的なレ再建法へと拡大され、明確化されます。こうしてこの法律は、大統領が南部で構築した政権を一掃するのです。

Andrew Johnson

この法律は、旧南軍を連邦軍の支配下に戻し、新しい憲法制定会議の選挙を要求し、採択された憲法に、アフリカ系アメリカ人の選挙権と元南軍指導者の公職からの追放を要求するのです。この法律の下で、旧アメリカ連合国のすべての州に新しい政府が樹立されたのです。ただし、テネシー州は既に再連邦への復帰が認められていました。そして1868年7月までに、議会はアラバマ、アーカンソー、フロリダ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスカロライナから上院議員と下院議員を選出することに同意します。1870年7月までに、残りの南部諸州も同様に再編され、連邦へ編入されていきます。

議会の共和党員はジョンソン大統領に疑問を呈し、彼が度重なる拒否権を可決した再建法を大統領が施行すること疑い、可能な限り彼の権限を剥奪しようとします。議会は大統領の軍事命令はすべて軍の将軍であるユリシーズ・グラントを通じて発令することを要求します。それによって軍に対する大統領の統制を制限しようとします。そして、在職任期法(Tenure of Office Act)によって、任命される役員を解任する大統領の権利を制限します。

ジョンソン大統領は、南部で急進的な法律の執行を阻止するためにできる限りのことをし続けるのですが、共和党のより極端なメンバーは大統領の弾劾を要求します。大統領が1868年2月に急進的な陸軍長官エドウィン・スタントン(Edwin M. Stanton)を内閣から解任する決定を下します。しかし、その解任は明らかに在職任期法に反していたため、共和党の弾劾手続きの口実となります。下院は大統領の弾劾に投票し、長引く裁判の後、上院はわずか1票差でジョンソンは大統領の座を保つことができます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その75 芸術と出版界

Stephen Foster

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William H. McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で定番のものとなっていきました。

大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィンJoseph G. Baldwin、ジョンソン・フーパー(Johnson J. Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネッ(James G, Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank LeslieHarper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah J. Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市アメリカで大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』Leaves of Grass(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらます。

Walt Whitman

アメリカ合衆国建国の歴史 その52 パリ条約–1783年

北アメリカにおける軍事的な評決は、1782年のイギリス–アメリカ和平予備条約(Anglo-American Peace Treaty) に反映され、それは1783年のパリ条約(Treaty of Paris)に盛り込まれます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、ジョン・アダムズ(John Adams)、ジョン・ジェイ(John Jay)、ヘンリー・ローレンズ(Henry Laurens)がアメリカ側委員を務めました。この条約により、イギリスは西側のミシシッピ川を含むおおまかな境界線を持つアメリカ合衆国の独立を承認します。イギリスはカナダを保持しましたが、東フロリダと西フロリダはスペインに割譲します。また、アメリカ人のイギリス人に対する私的債務の支払い、アメリカ人のニューファンドランド(Newfoundland)漁業へのアクセス、大陸議会から各州への忠誠者の公正な扱いを支持する勧告などの条項が盛り込まれます。

Treaty of Paris-1783


アメリカ大陸の割譲

イギリスに忠誠を示す多くの人々は新天地に残りますが、約8万人もの保守派のイギリス人はカナダ、イギリス、イギリス領西インド諸島に移住します。その多くはイギリス兵として従軍し、アメリカ各州から追放された者たちでありました。戦時中や戦後、忠誠的なイギリス人はアメリカ各州から危険な敵として厳しく扱われました。彼らは一般に市民権を奪われ、しばしば罰金を科され、財産を没収されることもしばしばありました。その最も危険な者は、通常、死刑を宣告されるほどでした。イギリス政府は、4,000人以上の亡命者に財産の損失を補償し、およそ330万ポンドを支払いました。また、土地や年金の支給、再起を図るための任用も行いました。アメリカに残ったあまり忠誠的でない保守派の人々は、イギリスからの独立を受け入れ、一世代を経た後にはアメリカの愛国者と見分けがつかないほどになりました。

ウクライナの歴史から学ぶ その十六 ロシアによるウクライナ侵略

本稿は、「ウクライナの歴史から学ぶ」の最後の話題です。マイダン革命に対して、ロシアは猛反発し、ウクライナ領のクリミア半島のロシアによる併合と親ロ派武装勢力によるドンバス(Donbass)地方での不安と緊張が高まります。これがクリミア戦争の下敷きとなります。ドンバスは、ウクライナの東南部に位置する地方で石炭の産地です。2014年5月にポロシェンコ(Petro Poroshenko)が大統領に選ばれます。彼は人民の反乱を集結するために武力の行使を正当化します。ポロシェンコはEUへの加盟を模索しながら、国民の50%以上の賛成を獲得します。彼は東ウクライナでの市民の内戦を鎮めようとし、ロシア連邦との修復も計ろうとします。

Wheat Field in Ukraine

ウクライナにおけるオレンジ革命やマイダン運動の余波で、2014年3月初旬からロシアを後ろ盾とする反政府の分離主義グループが、ウクライナのドネツィク州(Donetsk)とルハーンシク州(Luhansk)(ドンバス)で抗議行動を起こします。これらのデモ活動はロシアによるクリミアの併合を受けてのもので、ウクライナ南部と東部におよぶ広域な親露派の同時抗議の一環でありました。これが激化してドネツィク人民共和国(Donetsk People’s Republic)とルハンシク人民共和国(People’s Republic of Lugansk)を自称する分離主義勢力とウクライナ政府側との武力衝突に発展します。これがドンバス戦争(War in Donbass)です。当初の抗議行動は、主にウクライナ新政府に対する国内不満を表明するものでしたが、ロシアが親露派を利用してウクライナに対する組織的な政治活動および軍事行動を開始した事案とされています。

Sunflowers in Ukraine

2019年に実施された大統領選挙では、ヨーロッパとの統合路線を訴える一方でロシアとの対話も重視する姿勢も示したウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelenskyy)が73%の得票率で対露強硬派として知られた現職大統領のポロシェンコを破り当選します。その後、停戦協定が結ばれては協定違反の武力衝突が繰り返されます。2021年秋にはロシアがウクライナ国境への軍の集結を開始し、ドネツィク人民共和国とルハンシク人民共和国を国家承認したうえで、2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵略を開始し現在に至っています。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その十八 コネチカット州 Constitution State

コネチカット(Connecticut)。なんとも良い響きの名前です。ナンバープレートには「Constitution State」とあります。最初の憲法の素案を作った州というところです。合衆国の北東部、北大西洋岸は、どこかで紹介しました、ニュー・イングランド(New England) と呼ばれていますね。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州(Massachussets)、西にはニューヨーク州(New York)と隣接しています。

Map of Conneticut

コネチカットは英国の統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。コネチカットは英国から独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

ヨーロッパからの植民はオランダから来たといわれます。ピューリタン(聖教徒-Puritan)の人々です。やがてアイルランド、イングランド、フランス、ドイツ、ポーランド、イタリア、ポルトガルなどから移民が押し寄せます。その後プエルトリコなどからも人々がやってきます。その中で、ポーランド系やアイリッシュ系の人々が多いのが特徴となっています。

Harbor of Hartford

産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイング(Boeing)とエアバス(Airbus)のエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky)の本社などがあります。

囲碁にまつわる言葉 その29 【手談】

囲碁は互いの読み合いの文化です。相手の応手を考え三手や十手先まで読むのです。これはまさに戦そのものです。敵を知ることによって、戦術を考えるのです。どこが弱いか、強いかを探します。真正面から攻めず陽動作戦も採り入れます。どこが主戦場であるかを見極めるのです。

手談の布石

—–【手談】——–
盤上に打たれた石が相手に何かを語りかけているかのように感じるところから、囲碁が「手談」といわれる由縁です。

左下の【手談】は次のような無言の会話です。
・黒1 「下辺に白の模様を作られるのはいやです」
・白2 「いや、模様は作りません。左辺に地を作りますので、三三に入って生きてください」
・黒3 「隅で閉じ込められるのいやです。中央に出ます」
・白4 「分かりました。では下辺に地を作らせて貰います」
・黒5 「では、白2を頂戴します」

囲碁にまつわる言葉 その28 【坐隠】

「坐隠談叢―囲碁全史」という本が新樹社から1955年に発行されます。この本は、10,800円というのですから驚きです。囲碁ファンには堪らないものでしょうが、私には手がでません。金額はともかく、内容が理解できるかどうかです。

—–【坐隠】——–
中国の逸話集に「世説新語」というのがあるそうです。六朝時代の南朝宋時代に編集され、貴族・文人・僧侶などの逸話が集められています。[坐隠]とは、囲碁に夢中になって、盤にのめり込むような姿で座っている様子です。いかにも隠遁者に通じるもので、そうした人々の別称となっています。