Last Updated on 2025年2月28日 by 成田滋
小説「名人」では、観戦記者の川端康成は、浦上秋男という呼称を使っています。引退碁の光景や勝負師の表情、動作、心理などを流麗な筆致で描いています。一局を新聞に670日かけて連載したのですから、二人の棋士の風貌や一挙一動の写生が主になったと思われます。二人の碁を見ていたというよりも、碁を打つ二人を見ていたはずです。
その筆遣いは盤面の戦いをあたかも、実際の戦場であるかのように激しく克明に描きます。昭和12年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入します。新聞はこぞってセンセーショナルな戦争報道を続け読者を獲得します。日中戦争がエスカレートするにつれて、川端の活きいきとした観戦記も、多くの囲碁ファンを惹き付けたに違いありません。昭和13年頃の新聞は、紙面が多く、観戦記は一回が原稿用紙3枚半あったようです。観戦記は新聞社の興行に一役買ったようです。「名人上手の碁がよくわからないひけめがつきまとい、棋士を英雄視する誇張が加わった。そういう高調子もかへって讀者をそそる効果があったわけだ。」
この碁のクライマックスを川端は以下のような溢れる情動的な表現で伝えるのです。「後半戦は、盤面は大ヨセに入り、中央の白がどの程度まとまるかが勝負。黒119に白129と引けばアジがいいが、それでは形勢に自信が持てない。黒129の切り込みが絶妙手だった。白130を利かそうとしたのが敗着。黒121の封じ手が名人を怒らせ、また動揺させ、そして白130の運命的な敗着が導き出されたという。」
勝敗の分岐点になったらしき部分を川端は次のように描きます。「黒129と切った。白のもう片一方を、黒133で切って、3目の当り、それから黒139まで、当り当りと、ぐんぐん一筋に押して<驚天動地>の大きな変化が起きた。黒は白模様の真只中に突入した。私はがらがらと白の陣の崩壊する音が聞こえるように感じた。どこからか上手な尺八の音が流れてきて、盤面の嵐がわずかにやわらげた。」
川端は14回の打ち継ぎも一度も休まず観戦し、「名人と大竹七段とを丹念に寫生した」と述懐しています。川端といえども二人の高段の碁の内容を理解するのは難しかったはずです。しかし、「黒は白模様の真只中に突入した。私はがらがらと白の陣の崩壊する音が聞こえるように感じた」といった黒の優勢を意識したかのように描写します。このような冷徹な筆で綴る川端も相当の棋力ではなかったでしょうか。
12月4日の朝、敗北を悟ったのか、床屋を呼んで坊主のように頭を刈った秀哉名人は終局の碁盤に向かったとあります。こうして「不敗の名人」はついに引退碁に敗れます。 (2023年7月25日)