Last Updated on 2025年2月26日 by 成田滋
本稿は、『世界大百科事典 29』などを参照し【養老律令】にある【僧尼令】と、そこに記述されている碁の話題を取り上げます。碁は歴史的に古い伝統文化であることを知ることのできる貴重な資料が【養老律令】です。この法典は756年に作られます。武家政権のもとで国家の基本法典となりました。
仏教が広まるにつれて、教団の僧尼を統制する法が必要になってきたようです。それが【養老律令】の中の僧尼令といわれる法令です。僧尼令は、27条から成り僧尼の犯罪・破戒行為への措置とか民間への不法な布教や私度の禁止などを定めるのです。さらに犯罪・破戒に対しては、「天文現象を観察して偽って災祥を説き天皇国家を論難し百姓を妖惑すること、呪術を用いた民衆布教をすること、禁書である兵書を習読したり殺人・盗を犯したりする場合などの僧尼身分の剥奪と強制還俗という科罪」、そうした罪を犯すものへの苦使の刑罰が定められています。行政などを定める「令」としながらも、刑罰を定めた「律」に準じた性格の法令だといわれています。
僧尼令の9条は「作音楽条」とあります。それが以下の条文です。
【凡そ僧尼、音楽を作し、及び博戯せられば、百日苦使、碁琴は制する限りにあらず】
博戯とは盤双六のことです。歌を作り賭け事をする僧侶や尼には百日の苦役を課すが、碁や琴は罰せられない、というお触れです。当時人気のあった遊びは賭けを伴う盤双六だったようです。特に天武天皇は双六を好み,家臣に双六で競わせ、好成績の者には褒美を取らせたようです。双六は名誉とともに金品を得る手段となります。やがて賭博の要素が強くなると、「双六禁止令」がでるありさまです。
禁止令を出したのは持統天皇です。博打マニアの亭主に困ったからに違いありません。亭主というのは彼女の夫、天武天皇だったというのがオチです。
双六に対して、碁は賭けることのない遊びだったようで、禁止されることなく、平安時代になると囲碁は公家や僧侶、尼僧の間にさらに広まっていきます。公家とは貴族や上級官人のことです。紫式部、清少納言らが盛んに碁を打てたのは、双六とは異なり、対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて楽しまれたこと、言い換えれば信義に従って誠実に打っていたことの証左だろうと察します。それ故に「碁琴は制する限りにあらず」となったのでしょう。(2023年7月9日)