キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong

キリスト教音楽の旅 その22 日本のキリスト教と音楽 キリスト教信仰の回復

日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。

パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。

Marc Marie de Rotz

1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。