狂騒時代を振り返って その5 北海道拓殖銀行の破綻

Last Updated on 2025年2月9日 by 成田滋

北海道拓殖銀行の創設に少し戻ります。開拓のために資本の乏しい北海道に国策の銀行が必要となり、明治32年に北海道拓殖銀行法ができたことが記されています。国が投資する銀行は当時としては極めて珍しいことだったようです。北海道の開拓がいかに重要だったかを物語る出来事です。

旧北海道拓殖銀行

北海道大学の先輩、後輩の多くは北海道拓殖銀行に就職しました。北海道一の優良企業であり、最も憧れの職場でありました。一体誰が、やがて経営破綻すると考えたでしょうか。道民は、親しみを込めて拓銀と呼び、口座を開くとすれば拓銀というように、生活の中に浸透していた銀行です。札幌の大通り公園の一等地に大理石の本店を建てたときも話題となりました。拓銀もまたバブル景気に乗って不動産融資に巻き込まれていきます。地価の高騰を見越して身の丈以上の投資をどんどん進めます。

バブル景気による財テク

財テクとは、調達した資金で株式や債券、不動産に投資し、利益をあげようとする行為です。バブル景気により消費は過熱していきます。高騰したのは不動産だけではありません。ルノワール、ピカソ、ゴッホなどの絵画、骨董品、高級輸入車、株などあらゆる物件が投機や投資の対象となります。まさにマネーゲームです。こうした行動は企業だけでなく一般市民も巻き込んで広がります。企業においても本業で着実に利益をあげるのでなく、所有する土地や金融資産を運用して大きな収益を上げる「財テク」に走ります。やがて私立大学や企業組合も財テクに手をだして大やけどをします。

拓殖銀行破綻

私の両親は、定年退職後も拓殖銀行に口座を持っていました。誰一人として拓銀が破綻するなどとは思いもよらない時代です。1994年1月のとある週刊誌に「拓銀解体の衝撃シナリオ」と題する記事が掲載されます。親もようやく、なにかが起こるのではないかと不安を感じたというのです。さらにマスコミから「危ない銀行」として指名されるようになります。こうなると信用回復どころか、ずるずると信用の地崩れがおこります。大口の預金を下ろす企業も現れ、大蔵省から業務停止命令が出るのではないか、という噂も流れます。結局、大蔵省は救済措置を講じることはしませんでした。

拓殖銀行の破綻の原因は、1980年代後半の不動産向け融資が経営体力を無視して行われたことです。特に地元の建設会社への融資と債務保証が合計4,000億円規模に達し、経営危機の引き金となりました。そして最後の頭取は特別背任罪で実刑判決を受けます。

栄枯盛衰

盛者必衰、全てはこの世のなれの果て、などといいますが、拓殖銀行の経営陣の体たらくは目を覆うほどでした。北海道の歴史でこれほど天国から地獄を見た現象はなかったでしょう。辞書を調べますと、栄枯浮沈とか一栄一辱(いちえいいちじょく)などの四字熟語があります。 同義語です。それから一栄一落、一盛一衰、栄枯転変、さらに興亡盛衰などの言葉もあります。多くの債務を抱えて潰れる会社、投資し過ぎて倒産する会社、、、なんとマネーゲームに奔走する経営者が多いことか、そのモラルの低下には慨嘆したくなります。

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