チェコスロバキアの歴史 その一 チェコとスロバキア

 先日、2026年の世界経済フォーラム (World Economic Forum)、通称ダボス会議(Davos Meeting)において、カナダのマーク・カーニー首相( Mark Carney)による「原則と現実主義:カナダの進む道」という演説の草稿を読みました。この中で、チェコ(Czech)の反体制の指導者、ヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel)のエッセイ『力なき者たちの力((The Power of the Powerless))』が引用されていました。早速この小本を借りてきて読みました。154ページという冊子ですが、現代政治の状況を冷静に分析しています。彼の祖国、チェコスロバキア(Czechoslovakia)の置かれている体制がいかに大国の影響を受けてきたかを赤裸々に綴っています。そのような訳でのチェコスロバキアの歴史、政治、文化、スポーツの話題を掘り下げたくなりました。現在のチェコ共和国は1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキア(Slovakia)に分離し成立した国です。

 私にとってのチェコスロバキアですが、スポーツ選手の活躍がこの国を知ることになったきっかけです。1952年にフィンランド(Finland)のヘルシンキ(Helsinki)でオリンピックが開催されました。この大会で、チェコスロバキアの代表エミール・ザトペック(Emil Zátopek)は、5000m、10000m、マラソンで金メダルを獲得するという偉業を成し遂げたのです。これが当時の新聞に大々的に報じられ、彼の名を知りました。私は小学4年生のときです。この長距離三冠の記録は未だ前人未踏で、これからも達成する選手はいないだろうといわれるほどです。ザトペックは喘ぎながら走るスタイルから「人間機関車」と称されました。

チェコスロバキアの国章

 次に忘れられないチェコスロバキア人は、1964年東京オリンピックでたいそうな人気を博したベラ・チャフラスカ(Věra Čáslavská)選手です。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にしたのです。彼女の優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられたほどの選手です。彼女の活躍は体操だけではありませんでした。1968年のチェコスロバキアの民主化運動、いわゆる「プラハの春(Prague Spring)」の支持を表明して「二千語宣言」に署名します。

彼女は同年8月のワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)による軍事介入、首都プラハ(Prague)侵攻によって身の危険にさらされるのですがあくまで「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続ます。やがてチェコスロバキアの経済的・政治的自由化や民主化を訴える市民運動に発展し、共産主義体制の崩壊へと進んでいきます。

綜合的な教育支援の広場

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