Last Updated on 2025年3月27日 by 成田滋
1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。 1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。
人口増加の多くは、今世紀末の20年間にアメリカに流入した900万人以上の移民によるものです。共和国初期から1895年までは、移民の大半は北欧か西ヨーロッパからでした。しかし、1896年以降、移民の大半は南欧や東欧からやってきます。移民が政治的権力を持ち、暴力や産業紛争を引き起こしていると考える敏感なアメリカ人は、新しい移民がアメリカ社会に容易に同化できるはずがないという懸念を抱きます。こうした懸念は、アメリカへの入国資格を必要とする移民の数を制限する法律を求める運動へと発展します。やがて20世紀初頭には北欧や西ヨーロッパからの移民を優遇する割当法(quota)を制定することになります。
それまでは、移民に対する大きな規制といえば、1882年に合衆国議会で可決された中国人労働者のアメリカへの移民を10年間禁止する「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)くらいでした。この法律は、10年以上にわたる西海岸の中国人排斥運動であると同時に、あらゆる移民を受け入れるというアメリカの伝統的な考え方に、変化をもたらすものでした。
カリフォルニアからの圧力に応え、議会は1879年に排斥法を可決したのですが、1868年の「バーリンゲーム条約」(Burlingame Treaty)によって中国人に保証された権利を奪うものであるという理由で、ヘイズ大統領(President Hayes)が拒否権を行使します。バーリンゲーム条約とは、1868年7月にアメリカの国務長官ウイリアム・スワード(William Seward)と清朝の使節団の代表で駐清公使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame)との間で調印され、アメリカへ無制限の中国人移民を許可する条約です。
1880年にこの条約の条項は改正され、アメリカは中国人の移民を一時停止することができるようになります。中国人排斥法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民の一時停止が無期限とされます。中国人の初の大規模な移住は、1848年から1855年にかけてのカリフォルニア・ゴールドラッシュに始まり、その後も大陸横断鉄道の建設の使役に従事します。合衆国史上で移民に対する最も重い使役の一つといわれます。
