Last Updated on 2025年3月3日 by 成田滋
日本は未だにデフレの状態にある、というのが識者の見方である。とはいえ、インフレのような物価の上昇が続くという不可思議な現象が起こっている。世の中は、需要と供給の原理で成り立つはずである。しかし、どうだこの「令和の米騒動」とやらは。減反を奨励し補助金を渡しながら、米不足を予測できないとはなにごとか。国民は倹約や節約によって生活と命を守っている。皆が貧しいのであれば、我慢したり分け合うことになる。だが、一部の者が潤うならば、富の不平等に対して世論は黙ってはいない。
孔子の論語にある「乏しきを憂えず、等しからざるを憂え」という言葉が胸に突き刺さるような響きを持って迫ってくるといっても過言ではない。富の大部分が一部の国民や企業に蓄えられる一方で、庶民の家計はただごとではない。憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は保障されているのか。
為政者が使いがちなフレーズに、「我が国は大きな転換期にさしかかっている」というのがある。古い仕組みから出直し、復興する産みの苦しみをしているというのである。ここ30年のデフレ状態を脱却しようとする意気ならば結構だが、さらに増税だ、国民負担をお願いする、ということではないか。だが、ない袖は振れないのが今の国民生活なのである。この現在の状態を江戸末期の混沌状態の再現であるとし、それを克服した明治政府の姿になぞらえる見方もできる。今は、かつての勤王の志士のような存在がいないような気がする。早く高橋是清のような人物の登場が待たれるのである。
この社会体制のよしあしは、百の議論よりも社会で子ども、女性、障がい者、病弱者、高齢者などいまだに弱い立場にありがちな者がどのように処遇されているかによって、おおよそ決めうることである。「等しからざるを憂う」ことは、大震災の被災地にもあてはまる。我々はこれまでの豊かさが幻想ではなかったのかと反芻し始めている。そして節約だ、節電だという現実に直面したとき、それを実践することはさして苦痛ではない、質素な生活ができるのだと確信し始めている。便利さか効率という慣行に疑問を抱かなかったことのツケから学んでいる。
幕藩体制の崩壊、大平洋戦争の敗北という大きな困難を経てきた日本。そこから立ち上がってきた先人の努力から考える。日本人は指摘しうる多くの欠点とともに、また確かに世界の国や国民に伍してひけをとらぬすぐれた点があることを二つの復興という歴史的な事実が証明している。これを支えてきたのは、勤勉さ、親切さ、他文化への寛容と受容の熱心さといった為政以前の価値であり文化ということになる。法律や制度では決して形成できない尊い資質が一人ひとりの小さな存在にあって、それが困難に直面するとき覚醒し胚胎していったレジリアンスと考えたい。
昨今の政党の乱立、その離合集散は新たな選挙へと移行し進んでいる。政権与党も内部の対立を亀裂化し、その支配は大いに危ういといわれている。二つのものが混ぜ合わさったとき、双方の長所が活かされることはあまりないようだ。二つを足して二で割ると、平均値どころか、双方の矛盾が露呈するのが普通である。ということであれば、政党のタケノコ状態は健全な姿なのかもしれない。異なるものが収斂され収束していくときの結果のほうが、危ういのかもしれないのである。
あまりにも豊かさを求めて、小さな事の中にある意味を忘れてはいまいか。それが「乏しきを憂えず、等しからざるを憂え」という言葉だ。一人一人の声なき声をいまこそ投票で反映する必要がある。
