『代表的日本人』のなかで、内村鑑三は日蓮上人をその一人に挙げています。内村は自らのキリスト教信仰に生涯をかけて生きた人物であり、信仰のために社会的・経済的損失を厭わなかった人物です。日蓮もまた「南無妙法蓮華経」の信仰を絶対視し、命の危険にさらされながら、流罪や迫害にも屈しませんでした。このような「信仰のために命を懸ける姿勢」に、内村は強く共鳴したようです。1261年には、「立正安国論」などの過激な発言により鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪になります。
日蓮は仏法による国の立て直し、いわゆる立正安国を唱えます。そこでは、法然の「専修念仏」を批判の対象に取り上げます。「専修念仏」とは南無阿弥陀仏と唱えることです。貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった「専修念仏」を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断するのです。こうして他宗を激しく批判・否定する等の過激な発言を行い、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した御成敗式目第12条「悪口の咎」の最高刑で1271年に佐渡へ流罪となるほどです。そして1274年に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻ります。赦免の理由は、蒙古襲来の危機が切迫してきたためであるといわれます。
内村は「無教会主義」を提唱し、組織や権威に頼らず、個人として神との関係を築くことを重視しました。日蓮もまた、当時の仏教宗派や権力者に阿ることなく、自己の信念に従って独自の宗教運動を展開しました。権力や世間の流れに迎合しない道徳的・精神的な独立は、内村にとって理想的な宗教者像だったと思われます。日蓮は単なる宗教者ではなく、国家と社会への責任感を持った「宗教的社会改革者」だったようです。このように、信仰と社会との関係を重視する姿勢に、内村は宗教者の理想像を見たのです。
内村は旧約聖書の預言者たちに強い影響を受けており、「真理を語る者」としての預言者的使命に強い共感を抱いていました。日蓮もまた、迫害を受けつつ真理を訴える姿が、預言者に通じるものと映りました。内村は、日蓮を「日本の預言者」として見ており、その生き様に「真理のために生き、真理のために死す」という信仰者の理想を重ねていたと思われます。信仰に対する絶対的な忠誠心と不屈の精神が二人に共通するものといえそうです。