この人を見よー内村鑑三 その二十四 ヴォルムス帝国議会と免罪符

1921年6月に内村鑑三は、「ルーテル講演集」を発表します。この年を遡る400年前の1521年は、マルティン・ルター(Martin Luther)にとって重要な年となります。その理由は、神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)のヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)がヴォルムスで開かれ、ルターがここで異端として教会から破門された年だからです。ルターの信仰を大帝カール第五世(Karl V)の前において堅く宣言した年とも言われます。このヴォルムス帝国議会では、ルターが1517年の『95か条の論題』(95 Theses)を発表したことに端を発していたといわれます。

Dr. Martin Luther

 ヴォルムス帝国議会の開催に先立ち、1519年にはライプツィヒ論争(Leipzig Debate)というの起こります。この論争は、ルターに対して神学者として著名であったヨハン・エック(Johann von Eck)はルターの『95か条の論題』反論するものでした。ルターは、教皇や公会議の権威否定の発言により、教皇レオ十世(Leo X)と決別します。レオ十世は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 建設資金のためにドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)、別名「免罪符」の販売を認めます。後に、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになったのがこの免罪符の発行にあったといわれます。

 贖宥状は、信徒がカトリック教会への金銭的寄進や善行を行うことで、自己の犯した罪の現世的な処罰が軽減または免除されるとされました。教皇庁の財政難を補う手段として贖宥状の販売が盛んに乱用されたます。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意志説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励するのです。この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになるのです。

 ルターは『95か条の論題』を発表し、宗教改革に乗り出します。その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大していきます。それに対して、1519年に神聖ローマ帝国カール五世は、ドイツの各領邦や諸侯、高位のカトリック聖職者の支持を確保するために、問題化しつつあったルター派と教会の対立を調停する必要に迫られます。そこで開かれたのがウォルムス帝国議会です。議会では、新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターの身の安全を保障してルターを議会に召喚します。カール五世は、宗教改革により帝国が解体することを恐れ、ルターに『95か条の論題』の撤回を求めますが、ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここに我は立つ」(Here I Stand) と宣言したと言われます。

 議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定をします。決定はカール五世の名によってヴォルムス勅令として発布されます。『95か条の論題』は、はルターが1517年10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会の門に貼り出したとされています。文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされています。実際にはラテン語で書かれていたので、一般市民には全く内容はわからないものでした。通説によれば、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動で、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こしたといわれています。以下の引用は95か条の一部です。

ヴォルムス帝国議会

教皇の贖宥によって人間は全ての罪から赦免され、救われるというあの贖宥説教者たちは誤っている。贖宥状で自分たちの救いが確かであると信じる人たちは、その教師たちと共に、永遠の罪を定められるであろう。

 『95か条の論題』に関して、後世の歴史家や神学者らの中には、ルターが行ったことは当時多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかったと論評する者もいました。この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考えていなかったのではないか、というのが現代の学術界の定説となっています。

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