この人を見よー内村鑑三 その二十二 信徒としての自らへの問い

 「わが信仰生涯」「卓上談話」の二篇は、ごく晩年の内村が家庭の団らんの間で語ったことを著者の子息である内村祐之氏夫人が綴ったものです。そこでは、キリスト信者とはなにか、自分はキリスト信者かを自問自答している場面があります。それは自身の信者観であり、著者の信仰を具体的に語るものです。「いかにしてキリスト信者たるを得んか」は、田舎の少女達に語ったもので、「クリスチャンたることは易しいことであり、それにはまず真正の人間に立ち帰り、他人を喜ばせんことを思って、自分を楽しませんことを思わぬ人となることである」と語ります。「クリスチャンになることは、神に信頼することであり、彼に万事を引き渡すことである」とも言います。信仰がその根本においていかに純真であり、純粋であることか示すのです。

「幸福なるは、いたって容易である。心の中に人を愛すればよい。キリストにあっていかに愛せられる時、人は誰でも人を愛したくなる。すなわち愛するの幸福な道は信じるの道である。幸福とは人に愛せられることではなく神に愛されることである。最も幸福なことは、人に善をなして、その人に悪しく言われることである。」

 なんという逆説的な言葉でしょうか。内村鑑三は時に矛盾の人、謎の人と不可解視されるのは、こうした人生を超越するのような幸や不幸を意に介しない態度にあったのではないか、、、、超絶的なこの信仰者をどうすれば理解できるかは、深い読み解く力が必要です。このような思想は、かつで内村が学んだマサチューセッツ州(Massachusetts)が生んだ思想家、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)やデビッド・ソロー(Henry David Thoreau)の超絶主義(transcendentalism)の感化を受けたことは容易に理解できます。

 旧約聖書(The Old Testament) のミカ書(Book of Micah) の6章8節があります。「人はただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくださって、あなたの神とともに歩むことではないか。」人は信仰に直面するとき、どのように判断し、どのように行動するかを決定するのは、彼の持つ価値体系によらねばなりません。それ以外のもの、外部の権威、信徒批判とか、その他なんであれ、自分自身の内心の確信以外のものによって、動かされるものではありません。内村鑑三の生き方や信仰はそれを示しているように思われます。

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