ミュンヘン会談と宥和政策 その三 ネヴィル・チェンバレン

2025年8月15日にアラスカのアメリカ軍基地において、トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれました。ウクライナ抜きです。会談後の共同記者会見で両者が発言した内容はさして新しいものではありません。お互いに多くの点で一致をみたが、重要な点ではまだ未解決な課題があるという内容です。

 トランプとプーチンは大国の首脳ですが、双方は大事な課題については相違があるということを認め合ったようです。それはウクライナ領土のドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)の割譲を要求するプーチンに対してトランプが合意していないということです。この違いはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)とトランプ大統領との格の違い、チェンバレンとヒトラーとの格の違いを示しています。つまり、ヒトラーのほうが政治や軍事面で優位であるがゆえに、チェンバレンは妥協せざるを得ないという結末が待っているのです。このことは「その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発」で説明します。

 1938年4月24日、ズデーテン・ドイツ人民党党首で指導者的存在であったコンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)はチェコスロバキア政府に対し、ズデーテン地方でのドイツ人の地位向上と自治を求めます。1938年5月7日、イギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対し、ヘンラインの要求を受け入れるように求めます。これを介入の好機とみたヒトラーは、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)大将にチェコスロバキア侵攻計画「緑作戦」の策定を督促していきます。5月20日にこの作戦は完成しますが、軍の見通しは時期尚早とされ、ヒトラーもいったんはチェコスロバキア侵攻を見送るのです。

ナチス総統館

 イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)はチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相エドワード・ダラディエ(Édouard Daladier)と外相ジョルジュ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet) をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意します。9月19日にプラハ(Prague) 駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Benes)にズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告します。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶します。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関与しない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行います。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ(Milan Hodza)内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー(Jan Syrovy)内閣が成立します。

ミュンヘン会談後ロンドンに戻るチェンパレン

 チェコスロバキア政府の勧告受諾を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルク(Godesberg) でのヒトラーとの会談に臨みます。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーン(Ceský Tesín) の割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否します。こうして会談は物別れに終わります。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告します。

綜合的な教育支援の広場



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