アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その45 大陸議会の開催

Last Updated on 2025年3月20日 by 成田滋

植民地政府へのイギリスの介入は、植民地の他の各地を脅かす可能性があり、団結して行動することによって対抗できるというのが広く一般的な見方でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。

 ジェファソンは、植民地の立法権の自律性を主張し、アメリカ人の権利の根拠について極めて個人主義的な見解を打ち出します。アメリカ植民地やその他のイギリス帝国の構成国は、王の下に統合された別の国家であり、したがって王のみに服従し議会には服従しないという考えは、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)やジョン・アダムス(John Adams)をはじめとする他の代表者にも共通し、イギリス議会に強い影響を及ぼします。

 大陸議会で審議されたことは、各植民地が1票ずつ投票するか、それとも人口との比率で計算した富の額によって投票するかということでした。植民地毎の投票という決定は、富も人口も十分に把握できないという現実的な理由から提案されたのです。個々の植民地は、その規模に関係なくある程度の自治権を保持し、それは直ちに主権や特権に反映されるというものです。マサチューセッツ州の影響を受け、議会は次にマサチューセッツ州サフォーク郡(Suffolk county)で示されたサフォーク決議案(Suffolk Resolves)を採択し、初めて自然権を公式の植民地論に採用するのです。すべての抗議は不文律(common law)と憲法上の権利に基づいていました。しかし、こうした決定はさておいて、世間では対立を警戒する慎重なムードも漂っていました。

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