忘れ得ぬ人 その二 国際ロータリークラブ:国吉 昇氏

Last Updated on 2025年7月19日 by 成田滋

いつかこのブログで「ドルと沖縄と留学」という拙稿を掲載しました。私が始めて沖縄に赴いたのは1970年。本土復帰の2年前です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を設置する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要。1ドルが360円のときでした。当時、幼稚園設置のために琉球政府のお役人とで何度も打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれて、認可にこぎ着けることができました。沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たします。このときは1ドルが300円となりました。

 開園後、園児を募集すると障がいのある2人の幼児が保護者に連れられてやってきました。この2人を担当するのが私の仕事ともなりました。彼らと接しながら、もっと障がい児教育を学ぶ必要を感じていきました。ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の分野で奨学金を出していることを知りました。沖縄には那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会いました。

 国吉氏は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦で九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして40年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員です。国吉氏は私をロータリーインターナショナル(Rotary International)の奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。当時の為替レートでいえば、200万円です。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブ(Officer’s Women Club)からも1,700ドルの奨学金が提供されました。そして1978年に家族を連れてアメリカに向かいました。

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ・ミヨン(filet mignon) の部厚いステーキが5〜6ドルくらいで、1,500円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに3,000円、4,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍、3倍に上がりました。沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。沖縄は完全に本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、国家権力がいかに強大かを思い知らされることになりました。

 ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。通常買い物で100ドル札を出す人はいません。皆小切手を使います。彼女は100ドル札を見たことがなかったのです。その時の円相場は1ドル200円前後で、授業料の支払いなどでわずかの円預金では大変な生活でした。学業がてら私も家内も懸命にアルバイトをしました。このような留学経験は、通貨の価値とか為替相場ということを知る機会となりました。

 時を経て、1982年12月にウィスコンシン大学から学位を貰い、帰国してから横須賀にあった文科省の研究所、兵庫県にある小さな大学で教育と研究に従事することになりました。その間、国吉氏と手紙のやりとりをしながら、1995年に長男とともに沖縄に出かけ、国吉氏と再会できました。2020年の12月に再度那覇を訪れ、那覇東ローターリークラブの例会でお礼を述べ、その後老人ホームに入っておられた国吉氏とお内儀にお会いしました。国吉氏の記憶は大分衰えているようでした。2024年の7月に国吉ご夫妻のご長男からお二人がお亡くなりになったという手紙を頂戴しました。アメリカに留学し学位を得て障がい児教育に従事することができたのは、ひとえに国吉昇氏のご尽力で奨学金を頂戴したお陰でありました。生涯、忘れ得ぬお一人です。

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