2001年8月17日に私の恩師のお一人であるディーン・シュスラー(Rev. Deane Schuessler)牧師のジューリ・シュスラー夫人(Julie Schuessler)から夫が心臓発作で亡くなったという知らせを頂ました。享年85歳でした。前日は、次男、孫らとでミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)の野球試合を一緒に観戦したとのことでした。長い闘病生活がなかったのがせめてもの幸いだったとジューリさんは書いておられました。
1965年、私は札幌ユースセンター教会でシュスラー師より洗礼を受けました。ご一緒したのは、現小樽オリーブ教会の牧師らでした。先生より「センターで働きませんか」と誘われて、就職が内定していた商社を断りセンターで青少年活動を任されました。1967年に結婚したときも司式をしてくださり、翌年長男が生まれて洗礼を施してくださいました。
時は経て、私は1971年に那覇ルーテル教会に派遣され幼児教育を受け持ちました。丁度、ミズリー派ルーテル教会内で神学論争があった頃です。そして1976年に日本ルーテル教団がミズリー派教会(Missouri Synod)からの自給を宣言します。シュスラー師は既に帰国されていましたが、日本各地でなお宣教師をされていた方々が、自給への経緯について心配されていたのを記憶しています。
私は1978年に国際ロータリークラブからの奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学しました。その頃、シュスラー師は隣のミネソタ州のルーテル教会から招聘されておりました。一家5人でシュスラー家を訪ねました。「ミネソタ州の州鳥はなにか知っていますか?」と訊かれ思案していると「モスキートです」と片眼でウインクされました。なるほど、外で立ち話をしていると蚊の大群が襲ってきます。ミネソタ州は氷河が残した10,000以上の湖が点在しています。シュスラー師はその後、神学博士号を取得され、いろいろな著作も刊行されました。
シュスラー師のご昇天にあたり、私は霊的な指導を受けた方々を想い出します。北海道の余市沖で溺れた高校生を助けようとして亡くなられた宣教師師、ジョージア州で車を譲ってくださった宣教師、沖縄幼稚園の園長であった宣教師、そして最初の感謝祭の晩餐に招待してくださった宣教師、前稿で就職のお世話をしてくださったジェームズ・ウィズィ宣教師などです。特にウィスコンシン大学に入るとき、マディソン市内で牧会されていたトマス・ゴーイング師からは、教授を紹介してもらい、そのまま博士課程修了まで指導を受けることができました。シュスラー師の息子のジョエル・シュスラー氏がミネアポリスのコンコーディ大学(Concordia College)で教鞭をとっていました。この大学の教師教育やインターネット活用のカリキュラムなどを見聞できたのも幸いでした。
振り返りますと、宣教師の方々にお世話になった者で私の右に出る者はいないだろうと思います。長年日本における宣教に邁進されたお一人おひとりの先生方の訃報に接すると、「すべてに時がある」という聖句が心に浮かびます。
