ミュンヘン会談と宥和政策 その五 宥和政策の理由と失敗

ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。

あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。
“You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”

 このチャーチルの言葉は、先日のトランプがプーチンとの会談で示したロシアの譲歩に似ています。停戦はウクライナのゼレンスキー大統領の態度如何であると言って、プーチンになんらの警告も出さなかったのです。しかも会談中にロシアのウクライナの都市への爆撃が続くという有様です。


ズデーテン地方

 この発言は、チェンバレン政権がヒトラーに譲歩したことを「屈辱(dishonour)」と断じ、それが結局は戦争を防ぐどころか助長する結果になるだろうと警告するのです。チャーチルは、チェンバレンが国民にたいして述べた「平和」は幻想であり、ミュンヘン会談の後に宣言されたその和平は一時的なものであり、根本的な解決になっていないと断定します。そして「ヒトラーの要求は止まらない。彼はズデーテン地方だけで満足することはなく、次の侵略を計画している。その侵略がやがて起きる。」と予測します。ヒトラーの野望に対しては、力による抑止が必要であるとし、ヒトラーその野望を止めるには譲歩ではなく、早期の軍備強化と集団安全保障体制が必要だと主張します。

 結果的にチャーチルの見解は的中し、1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発するのです。チャーチルの警告は現実のものとなり、宥和政策の失敗が明確になります。チャーチルはミュンヘン会談における宥和政策を「屈辱的で危険な譲歩」と位置づけ、戦争を防ぐどころか逆に招く結果になると強く批判しました。彼の見解は当時は少数派でしたが、後に歴史的に正しかったと評価されています。

チェンパレンの我々の時代の平和

 チェンバレンが宥和政策を選んだ主な理由はいくつか指摘されています。それには第一次世界大戦の記憶と反戦世論がありました。イギリスを含むヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の記憶が生々しく、戦争による莫大な犠牲に多くの人が苦しんでいました。大戦後、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い世論が形成されており、政府に対しても戦争回避の姿勢が求められていました。特にイギリスでは、「平和のためなら多少の譲歩はやむを得ない」と考える国民が多かったのです。

 宥和政策を選んだもう一つの理由は、軍備の不備と準備不足がありました。1930年代のイギリスは、世界恐慌という経済不況の影響もあり、軍備の再建が進んでいませんでした。特に空軍・陸軍ともに、ドイツとの全面戦争を即座に戦える状態ではなかったようです。チェンバレンは、今戦うよりも、時間を稼ぎ軍備を整えることが現実的と考えていたとも言われます。こうして、複数の歴史的、政治的、社会的要因が絡んでおり、チェンバレンの宥和政策は、「弱腰」ではなく、当時の状況下で「最善の現実的選択」と考えられた部分もあります。

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