Last Updated on 2025年2月21日 by 成田滋
帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住民族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。
戦争の長期化によって、イギリスは広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの政治家は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土に責任を持つ必要がありました。イギリスはすぐに、先住民との関係全般を管理するようになります。
1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)にイギリス植民地からの入植の境界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した役人を通じて厳密に先住民との貿易を行うことができるとされます。この布告は、先住民の権利を尊重したものでしたが、酋長ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。
また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でありました。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の手から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われたと考えます。
実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。先住民族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスの政策立案者にとっては、依然として利権を守るチャンスがあったかもしれません。ですが勝利したアメリカ合衆国を相手にすると全く効果がなくなります。
