アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その80 アンドリュ・ジャクソン

Last Updated on 2025年3月24日 by 成田滋

アンドリュ・ジャクソンは、彼の信奉者たちにとっては、人民民主主義の体現者でありました。強い意志と勇気を持った自作自演の男である彼は、多くの市民にとって、一方では自然と摂理の広大な力を感じさせ、他方では人民の威厳を体現した人物であったようです。また、気性が荒いという弱点は、政治的な強みにもなりました。ジャクソンの反対派は、彼に対して財産と秩序の敵であるという烙印を押していました。やがて、ジャクソンは金持ちに対する貧乏人、利権者に対する平民のために立っている、というジャクソンの支持者が主張したことに賛成せざるをえませんでした。

 ジャクソンの味方は、彼の主要な敵対者と同様に、実際には保守的な社会信条を持つ富裕層でありました。彼は多くの書簡の中で、労働について言及することはほとんどありません。大統領に就任する以前、テネシー州で弁護士として、また実務家として、彼は持たざる者ではなく有力者に、債務者ではなく債権者に味方しました。彼の評判は、政党が人民の政党であり、政権の政策が人民の利益のためになるという信念を広めた識者たちによって大きく持ち上げられました。一部の裕福な批評家によってなされた野蛮な攻撃は、ジャクソンらが民主的であると同時に急進的であるという信念を強めることになりました。

 1820年代半ばに誕生した民主党のジャクソン派は、さまざまな人物や利害関係者が、主に現実的なビジョンによって結びついた緩やかな連合体でありました。彼の支援者は、オールド・ヒッコリー(Old Hickory)というニックネームで呼ばれたジャクソンは素晴らしい候補者であり、彼が大統領に選出されれば、人々に利益をもたらすという2つの信念を抱いていました。

 正規の教育を受けていなかったサウスカロライナ州出身のジャクソンは、肉親全てを南北戦争で失くし、自身も英国軍の捕虜になった経験がありました。決して恵まれた環境にありませんでしたが、戦後の混乱期において自らの力だけで這い上がってきた彼にとっては、力こそ正義だという偏ったイデオロギーだけが拠り所だったようです。その強権的な手法には批判も多かったといわれます。

 ジャクソンは、典型的な南部思考の持ち主だったようで、その政策も極端でした。彼の唱える民主主義はあくまで白人に限定としたもので、後に大統領候補者としての特徴は、特に何の政治的理念も持っていないように見えたことだといわれます。奴隷解放運動を否定し、インディアン強制移住法(Indian Removal Act)を提案して物議を醸したのもジャクソンです。大統領選挙では、ジャクソンは敗れ、ジョン・アダムズが大統領に選出されます。

 1825年10月にテネシー州議会は再びにジャクソンを大統領候補に指名します。選挙は戦争の英雄として支持を集めていた民主党所属のジャクソンが勝利し、合衆国第7代の大統領となります。共和党陣営はジャクソンを「ロバ(jackass)」と呼んで揶揄したようです。jackassとは頑固者とか間抜けという意味のスラングです。後に「アメリカの漫画の父」と呼ばれた風刺漫画家のトーマス・ナスト(Thomas Nast)が後にそれを普及させ、ロバは民主党のシンボルとなります。ロバの英語は「donkey」ですが、これも頑固者という意味だそうです。

 イギリスの政党で保守党の前身はトーリー党。イギリス国教会を支持し地方の地主層を基盤としました。片やホイッグ党は自由党と呼ばれ、政策は自由主義に裏打ちされ、資本主義の発達を促すブルジョワジーを優遇し、自由貿易を促進します。この二大政党の影響がアメリカに伝わります。

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