アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その70 流通革命

Last Updated on 2025年3月22日 by 成田滋

あらゆる面における工業化進展の鍵である輸送の改善は、アメリカでは特に重要でした。発展途上のアメリカ経済の根本的な課題は、国の地理的広がりと貧弱な道路網の状態でした。五大湖、ミシシッピ渓谷、湾岸と大西洋の海岸を単一の国内市場に組み込むという幅広い課題は、航行可能な河川の豊かなネットワークに蒸気船を投入することによって最初に解決されます。

 1787年、発明家で時計職人であったジョン・フィッチ(John Fitch) は、フィラデルフィアの人々に実用的な蒸気船を公開しました。数年後、彼はニューヨーク市でもその業績は評価されます。しかし、政府の資金援助がないため、蒸気船の発明を完全に実用化するには民間の支援が必要でした。やがて最初の蒸気船の実用化を実現したのはロバート・フルトン(Robert Fulton) でした。

 彼はフランスに滞在していたとき、手動式潜水艦であるノーティラス(Nautilus)を設計してフランス海軍に売り込もうとしました。そのとき駐仏米国公使であったロバート・リビングストン(Robert Livingston)と知り合います。リビングストンの援助を受けて、ハドソン川(Hudson River)の蒸気船を建造することになります。

 フルトンは、1807年に最初にハドソン川を外輪船(paddle wheeler) クレルモン号(Clermon)を試作し、何度も運転しました。内陸では蒸気が王様であり、クレルモン号という最も壮観な船はミシシッピ川の外輪船となります。この船は船長42.8m、船幅4.3m、喫水1.2m、排水量約80トンで、浅い急流の川で航行ことができる設計でした。クレルモン号は海洋技術者のユニークな作品となりました。

 海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川(Mississippi River)流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。1824年のギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争で、マーシャル最高裁長官(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。

 「ギボンズ対オグデン」という裁判事例です。アーロン・オグデン (Aaron Ogden)の会社に、ニューヨーク州は州内の水域における蒸気船の独占航海権を与えていました。ところが、連邦法によって航海の許可を受けていたトーマス・ギボンズ(Thomas Gibbons)は、ニューヨーク州法を無視し、ニュージャージー州からニューヨーク州に蒸気船を航海させるビジネスを始めました。そこでオグデンは訴えを提起しますが敗訴します。

 ロバート・フルトンは、最初の商業的に成功した蒸気船の開発で知られエンジニアです。1807年の頃です。当時の蒸気船はまともに動くものがほとんど無かったために、ハドソン川での試運転までは周囲から「フルトンの愚行」と揶揄されていたようです。またフルトンは、世界初の実用的な潜水艦の1つであるノーチラス(Nautilus)を発明したことでも知られています。「海底二万里」(20000 Leagues Under the Sea)というアメリカ映画の潜水艦名もノーチラスでした。

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