アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その51 アメリカ共和制の基礎

Last Updated on 2025年3月21日 by 成田滋

当時、アメリカが強大なイギリスを相手に勝利できるかどうかは全く見通せない状態でした。散在する植民地は、固有の統一性をほとんど持たず、集団行動の経験も浅いなかで軍隊を創設し維持しなければなりませんでした。大陸議会以外に共通の制度を持たず、大陸の財政の経験もほとんどなかったからです。アメリカ人はフランスの援助なしには戦争に勝つことはできませんでした。フランス王政は、反英ではあっても親米ではありませんでした、フランスは、アメリカ人が戦場で何ができるかを注意深く見守っていたのです。フランスは、アメリカの独立宣言後すぐに武器、衣料、借款の提供を陰ながら始めますが、アメリカとの正式な同盟が結ばれたのは1778年になってからでした。

 アメリカの課題の多くは独立の達成後も続き、何年もあるいは何世代にも及ぶアメリカ政治の悩みでした。しかし、他方で植民地には、あまり顕著ではありませんでしたが貴重な力の源泉がありました。事実上、すべての農民が自分の武器を持っており、一晩で民兵隊(militia)を結成することができていました。個人の武器の所持はこのときから始まっていたのです。根本的には、アメリカ人は長年にわたって、主にイギリスの新聞から基本的に同じ情報を受け取っており、それが植民地の新聞に同じ形で転載されていたからです。その結果、主要な公共問題に関して、極めて広範な意見が形成されるようになりました。もう一つの重要な要因は、アメリカ人が数世代にわたって、選挙で選ばれた議会を通じて自らを統治してきたことです。その結果、議会は委員会政治において高度な経験を積んできていました。

 この制度的積み上げ(institutional memory)という要素は、自治の意識を形成する上で非常に重要なものとなりました。人は習慣的な方法に愛着を持つようになりました。特に課題を処理する習慣的な方法としては、イギリスやヨーロッパ大陸で発表された共和制の理論を取り入れ、それが関係者の中に浸透していき、重要なイデオロギーの基礎を形成することになりました。さらに、植民地の視点から見ると植民地の自治は、17世紀半ばにイギリス議会が内戦を戦い、1688年から1689年にかけての名誉革命(Glorious Revolution)によって再確立されたことを示すものとなりました。植民地の人々は、自治の考え方がイギリス政府の原則と連続しており、一貫性があるように考えられたのです。

 また、このような自治の経験が、植民地の指導者たちに事案への対応を教えてきたことが重要でした。1774年に また、このような自治の経験が、植民地の指導者たちに事案への対応を教えてきたことが重要でした。1774年に大陸議会が開かれたとき、代表者は適正な手続きについて議論する必要はありませんでした。すでにそれを知っていたからです。議会の権威は正統性の伝統に根ざしており、選挙にあたってもそれまでの慣行が使われました。有権者は、やがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へとさしたる困難もなく賛同することになります。が開かれたとき、代表者は適正な手続きについて議論する必要はありませんでした。すでにそれを知っていたからです。議会の権威は正統性の伝統に根ざしており、選挙にあたってもそれまでの慣行が使われました。有権者は、やがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へとさしたる困難もなく賛同することになります。

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