アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その42 憲法上の相違

Last Updated on 2025年3月5日 by 成田滋

 1760年代は、本国からの独立を望む植民地出身者はほとんどおらず、独立を想像することすらできませんでした。ただディキンソン(John Dickinson)は自分のエッセイの中で、明らかに苦しみながらも誠実に独立の可能性をほのめかしていました。植民地における激しい議論は、時に感情的にはなりましたが、政治機構を変えようとするものではなく、法解釈をめぐる議論でありました。植民地側の主張の核心は、イギリスの臣民として、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があるということでした。植民地人は、憲法上、自分たちの同意なしに課税されることはなく、課税を決定するイギリス議会にも代表者がいなかったため、イギリス本国の政治に同意していなかったのです。

 マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家で政治活動家のジェームズ・オーティス(James Otis)は、2つの長い小冊子の中で、このような但し書きをつけて、すべての主権を議会に譲渡しました。しかし、議会が植民地に対する合法的な立法権を持っているかどうかについて疑問を持つ者も現れ始めます。1760年代後半には、フィラデルフィアに住むスコットランド移民の弁護士ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)が、このテーマで小論を執筆し疑念を表明します。

Charles Townshend

 タウンゼンド諸法(Townshend round of duties)の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、本国の国内法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するというものでした。しかし、植民地の人々は、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があることを主張し、タウンゼンド諸法に強く反対するのです。

 1770年にタウンゼント諸法(Townsend round of duties)が廃止されたため、ウィルソンはこの小論を非公開とし、1774年に新たな問題が発生した際に「英国議会の立法権の性質と範囲に関する考察」として発表します。この中で彼は、議会の合法的な主権はイギリスの海岸で止まっているのだという植民地で集めていた意見を全面的に表明していくのです。

 議会への代表権に関する植民地の訴えに対するイギリスの公式回答は次のような内容です。すなわち植民地は、投票権を持たない大多数のイギリス国民が投票権を持つ人々によって代表されているのと同じ意味で、植民地人も議会において事実上代表されているというものでした。これに対してオーティスは、イギリス国民の大多数が投票権を持っていないのであれば、彼らが投票権を持つべきだ、とからかいます。何度か提案された植民地からの議員という提案は、時間と距離の問題、そして植民地の人々にとって植民地の議員は十分な影響力を持ち得ないという理由から、解決策にはなり得ませんでした。

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