アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その148 米比戦争とアギナルドの役割

Last Updated on 2025年3月29日 by 成田滋

 1899年2月4日夜、マニラを取り囲んでいたアメリカ軍とフィリピン軍との間で、避けられない衝突が始まります。2月5日の朝、勇敢に戦ってきたフィリピン人は、すべての地点で敗退してしまいます。戦闘が進行する中、アギナルドがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカは直ちにフィリピンに援軍を送ります。フィリピン政府は北へ逃れていきます。1899年11月になるとフィリピン人たちはゲリラ戦に打って出るのです。

 3年にわたる高い代償を払った戦闘の後、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン将軍(Frederick Funston)の率いる大胆な作戦により、アギナルドがルソン島(Luzon)北部のパラナン(Palanan)の秘密司令部で捕えられ、反乱はついに終結します。アギナルドがアメリカへの忠誠を誓い、アメリカ政府から年金を支給され私生活へと引退します。

 1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。

 1944年末にアメリカ軍がフィリピンに戻り、1945年にマニラを奪還した後、アギナルドは逮捕されます。日本軍との協力で告発された者たちは、大統領恩赦で釈放されるまで数カ月間投獄されます。1950年、エルピディオ・キリノ大統領(Elpidio Quirino)によってアギナルドは国家評議会のメンバーに任命されます。晩年は退役軍人問題、フィリピンのナショナリズムと民主主義の促進、フィリピンとアメリカの関係改善に力を注ぎます。

 戦後エルピディオ・キリノは公職での活動を続け、独立後初の副大統領に選出され、同年9月に外務大臣を兼任します。そして1948年4月にキリノは大統領に就任します。

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