Last Updated on 2025年4月2日 by 成田滋
米西戦争(Spanish–American War)は事実上終わります。1898年7月18日、スペイン政府はフランスに和平交渉を要請します。しかし、戦闘が終わる前に、ネルソン・マイルズ将軍(Gen. Nelson A. Miles)が指揮する別のアメリカ軍遠征軍がプエルトリコ(Puerto Rico)を占領します。ワシントンでの休戦交渉は、1898年8月12日の議定書調印をもって終了します。
この協定は敵対行為を終了させるとともに、スペインがキューバに対するすべての権限を放棄し、プエルトリコとマリアナ(Mariana)海域にあるラドロン諸島(Ladron Islands)の無名の島をアメリカに割譲することを約束するものでした。フィリピンでは、スペインは、島々の最終的な処分を決定する平和条約が締結されるまで、アメリカがマニラ市と港を占拠することに同意します。和平委員会は10月1日までにパリで会合することになっていました。
マッキンリー大統領とその助言者たちが直面していた大きな問題は、フィリピンにおいてスペインに何を要求するかでありました。マッキンリーがキューバへの介入を提案したとき、地球の裏側にあるフィリピンを手に入れることなど考えてもいなかったことは確かです。また、多くの議会議員や一般市民が、この戦争の結果をそのように考えていたという根拠もありません。しかし、デューイがマニラで劇的な勝利を収めたことで、潜在的な戦略的重要性がにわかに注目されるようになります。ルーズベルトと友人のヘンリー・ロッジ(Henry C. Lodge)上院議員は、アルフレッド・マハン大佐(Capt. Alfred Mahan)のシーパワー(海上権力)理論の信奉者で、マニラ湾に極東におけるアメリカの影響力を大きく高める前哨基地があると考えたのです。
ヨーロッパ諸国の中国における侵略は、多くのビジネスマンにとってアメリカ市場を脅かすものと思われ、マニラは中国におけるアメリカの利益を守るための拠点として彼らにアピールしていました。プロテスタント教会(Protestant)の指導者たちは、マニラでの勝利をフィリピンでの布教活動への神の召しととらえます。さらに、日英両政府は、アメリカがこの島を保持することを歓迎することを表明します。スペインの支配が回復すれば、キューバが救われたときと同じような混乱が起こるだけと考えられたからです。
さらに、フィリピンの人々は自治を成功させるために必要な教育、訓練、経験を持っていないと信じられていました。この考えは、1898年6月にエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)率いるグループがフィリピンを暫定共和国にすると宣言したにもかかわらず根強く、現地の現実を無視していました。アギナルド軍は、マニラ以外の群島をほぼ完全に支配していたのです。
様々な熟慮とアメリカの民衆感情の評価に揺さぶられ、マッキンリーは長い熟考の末、アメリカがフィリピンのおよそ7,000の島々と700万人の住民を支配する必要があると決断します。この要求は、アメリカがフィリピンの公共建築と公共事業のために名目上2,000万ドルをスペインに支払うという条件で、しぶしぶスペインを同意させます。1898年12月10日に調印されたパリ条約は、この条件にそうものでした。スペインはキューバを放棄し、フィリピン、プエルトリコ、グアムをアメリカに割譲します。この条約はアメリカ上院で強く反対されますが、1899年2月6日に一票差で承認されるのです。
米西戦争に敗れたスペインでは、かつてのスペイン帝国の栄華が無残に否定されたことに大きな衝撃を受けます。そして知識人の中に自己改革運動が起こり「98年世代」と言われ、復古王制下のスペインの没落を自覚し、精神的な再生をめざしていきます。次稿でそれを取り上げます。
