アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その137 経済の回復

Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋

 1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領は再び関税を改定すべ多くの品目を自由リストから除外します。それによって輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられます。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5,000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

 1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、1896年の夏にカナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で発見された金鉱床となります。

 1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

 クロンダイク地方で金鉱が発見されると、一獲千金を狙う人々が殺到します。ゴールドラッシュでできた町ドーソン・シティー(Dawson City)は一時人口が3万人以上にまで膨れ上がったとか。その中で幸運にも金を採掘出来たのは約4,000人と言われます。

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